N°3 - 赦しは自分のため。嫌いなのは愛しているから
許すという行いは、本当に難しいことです。これが目下私の課題でもあります。
Forgiveness is not the same as reconciliation ――「許しは和解と同じではない」
許したからと言って、仲直りをする必要もないし、関係を継続する必要もありません。
許しとは自分のために行うものです。あなたを傷つけた人のためではありません。彼らがあなたからの許しに値するのではなく、あなたが平和に値するからです。
しかし、諸般の事情で、私は「彼ら」と一緒に暮らしている身です。「彼ら」とは家族なのですが、自分を傷つけた人がファミリーメンバーで、しかも関係が続いている状況では、尚更難しく思われます。現在の同居にも意味があると思っていますが、この切っても切れない関係の中で、それでも許せたら、どれほど私の心は晴れやかになるのでしょうか。
許せないのは、彼らに期待しているからです。彼らの振る舞いを直してほしいと、私が望み続けているからです。その一縷の望みが悪手であることはわかっています。毒親育ちにありがちな淡い期待であることも。彼らが変わらないことも。他人を変えることはできないということも。変えられるのは自分自身だけということも。ナルシシストは謝ることができない(どんなに小さな非も認めることができません)ということも。全てわかっています。これは理性ではなく感情の話なのです。わかっている、というより、知っているだけなのかもしれません。受け入れていないのかもしれません。
結局私は、彼らに適切に愛されたいだけかもしれません。
だけどそのテーブルに食事が運ばれることはないのです。だから私は自分のためにその席を立たなくてはなりません。
私は彼らからの愛を――私が望む形で表現される愛を――諦めなければならないのです。私はその希望を捨てられずにいます。
心理占星学では、5h(ハウス)は「愛情を与える行為」、そして11hは「愛情を受け取る行為」と解釈します。私の人生のテーマは愛なのだろうと思います。それは占いを知る前から予感したことでした。
許すことは自らを解放させることでもあります。被害者、犠牲者という役を降りることで、加害者という役者も必要なくなるのだという考え方があります。
この前私が持っているタロットデッキ、ラドリー・バレンタインの「エンジェル・ウィズダム・タロット」を引きました。大アルカナから1カード、「今私を最も守護している大天使と、その大天使からのメッセージ」を尋ねてみました。このデッキは、各カードと大天使を関連づけています。14番の「節制」に相当する「バランス」が出ました。大天使ザドキエルが描かれています。彼はまさしく許しや慈悲に関連し、その手助けをしてくれるようです。気づかぬうちに私たちはこうした存在に助けられながら心を癒しているのかもしれないと思いました。
13番の「死神」のショックを和らげるように、節制は甕から甕へ、異なる二つの液体を混ぜ合わせていきます。その流れはよく言われているように、16番の「タワー」の後に、17番の「星」が来ることと似ています。節制にしても星にしても一見して非常にピースフルで穏やかな絵ではあるのですが、これらが意味する事柄は痛みが伴うことも往々にしてあるような気がします。手放し、許し、または絶望を経験したあとに希望(というかfaith)を持つことは決して簡単ではないので、治癒のプロセスと言えども、「許しは痛い」と思いませんか?
私には今回この「バランス」が、光と闇、幸と不幸、そうした世界の暗部、醜い部分も含めて、それはコインの表と裏の関係であり、生と死が一つのセットであるように、到底切り離せるものではない、避けることはできない、という真実を受け入れるように言われている気がしました。
影が強いということは光も強いことを意味します。「陰極まって陽と転ずる」という言葉を私はツインフレームジャーニー中に知って心が軽くなったことがあります。もしこれを読んでいるあなたもそのジャーニーにいるのなら、今までの人生は実に陰に溢れたものだったでしょう。一人で向き合う他なく、助けがないように感じ、この世を地獄だと小さいうちから感じたことでしょう。だからこそ私はこの意見には「確かに」と思うのです。これだけの闇を経験したということは、光も経験することになっているはずです。それがバランスだからです。先ほどのホロスコープで言えば、愛されることも学ぶ必要があります。その両方を学んで初めて、私は愛というものを理解し、ちゃんと経験したと言えるのではないでしょうか。
とはいえ、許しというのは、ある時点で、「ああもう彼らのことは許したわ」と思っても、しばらくするとまた傷が疼いてきて、行きつ戻りつを繰り返す非常に複雑な感情ですし、焦って達成できるものでもないでしょう。こじはるが言うように何事も「焦りはブス」です。私は何か心に焦燥感が出た時に「アセブス」と言って制しています。まるでハリー・ポッターの呪文みたいですね。結局のところ、全てはタイミングであって、許せるときには自然と許せるし、許せないときにはどうしたって許せないのです。それに、許したくない、という反対の思いも持っているものです。許しは、その人の酷い行いが無罪放免になることでもなく、その人の酷い行いを受け入れる(寛大になる)ことでもありません。
Manipulation is when they blame you for your reaction to their disrespect.
――操作とは、彼らが彼らの無礼に対するあなたの反応を非難することです。(上手い訳ができなくてすみません。英語は独学です)
許しが行われるときはいつだって自分のために、自分の心の平和のために、選択したものだということを覚えておかなければなりません。許しには何段階もあって、螺旋階段のように同じところを巡っていきます。ときには階段を下ることだってあるかもしれません。立ち止まってしゃがみ込んでもいいのかもしれません。
まずは、「彼らを許せない自分」を許すことから始めてみましょう。
今回は残念ながら解決策を出せませんでした。が、こうしたリアルで生々しい感情を記録に残すのも悪くないかと思っています。
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