N°8 - 死は始まり

先日、故人の青年エリックを紹介しましたが*、彼は自ら命を絶ったのち、すぐに霊界(天国)に行ったといいます。*関連記事はこちら

日本の一般的な考えに慣れた人ならまず疑問に思うところです。日本の考えでは、強い感情を持ったまま亡くなったり、特にそれが自殺であれば、成仏がすんなり行くとは考えられず、未練を残した地縛霊や不成仏霊になるのだとか、命を粗末にしたとして天国には行けず、ずっと死の瞬間の動作を繰り返すとか、暗闇の中で反省させられるとか、来世はもっとハードな人生になるとか、或いは人間には生まれ変わることはできないだとか、いずれにせよなんらかのペナルティを払う、つまり罰を受ける、ということをずっと言われてきました。

これはいかにも道徳的で自殺の抑止に有効な教えであるかのように思われていますが、というよりも、独自の善悪のジャッジが強く、説教じみていて、また、自殺志願者や自殺に至る人達の心情や状況への理解に甚だ欠けているとしか言わざるを得ません。

実際この窮屈な教えの影響が未だ強力であるにも関わらず、この国の自殺者数が少ないとは聞きません。

エリックはすぐに、先に亡くなっていた祖母の迎えにより光の方へ進んで行った、スムーズに移行した、といいます。

私にとってはこれは衝撃的な話でした。

しかし、これはキリスト教的な考えがベースにあるのではないかと思われます。

というのも、以前、TBSの「クレイジー・ジャーニー」に出演した、世界中の幽霊憑依について研究している、イタリア人で日本の大学准教授でもある、アンドレア・デ・アントーニ(Andrea De Antoni)氏が、「イタリアではカトリックの影響で、死ねば天国か地獄だからこの世に留まることがないので、人間の幽霊を見ることはないし、たとえ幽霊らしきものを見たとしても言いません」と説明していたからです。

当たり前に思われてきた、「不成仏」という概念そのものが、日本という一国家の考え方に過ぎないということを痛感させられました。

と同時に、カトリックだろうとなんだろうと、その人の宗教的、文化的な影響によって形づくられた善悪の思想や観念もまた、罪の意識を感じさせるものであり、不自由になりうると思いました。タロットの「司祭」みたいに。

だからといって、「自殺者が天国に行ける」という説が、自殺を増長させるアイデアだと捉えるのは短絡的かと思います。

私のような、鬱病と闘ってきた希死念慮のある人間というのは、このような社会では、生きている間も死後も罵倒されるというジャッジに苦しんでいるのが現状です。そして、「死ぬ気になればなんだってできる」、「命を軽んじている」、「お前より不幸な人はいっぱいいる。恩知らず」、「アテンション・シーカー(注目を浴びたいだけ)」、「死ぬ死ぬ詐欺」、「鯖缶を一つ食べればたちまち治る」、「あなたの叔母さんは闘病で頑張っているというのに! (彼女の病より何十年も前に、何の関連もなく鬱病になったのだけど)」、などというスティグマを一体どれだけ浴びてきたかしれません。

実際に我々人間というのは、ハグをしなければならない場面で平手打ちをしてしまうことがたくさんあります。

きっと、私たちは分断ではなく、愛を持って繋がることが求められているのでしょう。

私の家族はこういう典型的なスティグマを言ってくる人物で、鬱病というもの、メンタル・イルネス全般を全く理解できないようです。一方で彼らは私に「Xね」と軽々しくその言葉を言ってきていました。私は自分の命に、そして人生に、やり過ぎなほど真剣に向き合ってきました。見つめてきました。小学生のうちから、無邪気で無鉄砲である特権と引き換えに、哲学的に、生きるとはなにか、死のは何か、本当に悪なのか、そうした問いかけをしてきて、何も軽んじたことはなく、シリアスでした。(哲学は生と死の学問ですよね。哲学を語れるほどちゃんと本を読んだことはありません。というかwikiですらそんなに読んでいません。知り過ぎると死にたくなりそうなので深入りしないようにしています)

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地獄や天国とは、場所ではなくて、心の状態である、と霊能者の月夜見さんは解説しています。つまり、生きている間にも、地獄や天国に「行く」ことがあることを示しています。

これにはなるほどと私も思います。何故、肉体がなくなった後も引き続き3次元のような空間を思い浮かべるのでしょう。あくまでそれは人間が理解しやすい表現の形に過ぎないのではないでしょうか。

死を絶対的に悪いもの、怖いものとして、人間は扱い過ぎました。結局それは、その方が利益のある人がいるからでしょう。死が身近で、医学的に成す術があまりなかった時代ならば理解はできます。

恐怖は、人間を支配するのに好都合な感情だと思います。不安にさせればさせるだけ、その人物を御しやすいのは見るも明らかです。

死は生とセットで語られなければなりません。「もののけ姫」のシシ神がそうであったように、人間の理解を超えた強力な運命の力です。また、乙事主(オッコトヌシ)の最期のように、どんなに善人でも悪人でも、そのタイミングや状況は私たちの願うようにはいかなかったりします。

月夜見さんによると、因果応報はないと言います。つまり、バチが当たるシステムはないのです。

こうした不条理が現世での悩みの種であり、レッスンを作っているのではないでしょうか。レッスンとは善悪を超えるものです。

私たちは、いかに死を恐れようと、魅了されようと、或いは遠ざけようと、備えようと、いずれ来たるその「状態変化」に、一体いくらかのことができるのでしょう。

生前の思想は死後の状態に影響するらしいです。とすると、もし私が幽霊になったとして、私を祓うのは大変かもしれません。塩や酒が効くとも今ひとつ信じていないからです。

......

私の経験上、後悔しなかった見送りはありません。

推定18歳の保護猫が、猫用オムツをして余命いくばくかのとき、彼がぎこちなくちょこんと私の膝に乗った時に悟りました。ああこれが最期に膝に乗る時なのだと。お互いにわかっていました。だからこそ彼は力を振り絞って乗ってくれたのです。

死後も、別れが淋しいのは、きっと生きている側の権利なのでしょう。

権利と私が言ったのは、こんなにもまだ愛おしく、寂しく思えるほど、かけがえのない素敵な猫に生涯で出会えたことは幸運であるからです。

もし憎たらしいほど嫌いな人間が死んだのならば、こうは感じないでしょう。

不思議と猫が旅立った直後は、家の中で、猫しか出さない音を耳にします。

私は物心つく前から幸運なことに猫に囲まれていました。だけど彼が最後の猫でした。あれから数年が経っていますが、両親も高齢なのでもう飼いませんし、今の私の状況では飼えません。猫がいない初めての期間を私は過ごしていて、これは「私が自分を優先することを学ぶためにもたらされた期間」であると解釈しています。私は典型的なgiverで、自己犠牲的に他の人や猫に愛を注いでしまう癖があるからです。

エリックは死後、チャネラーを通して、死後の世界(*便宜上そう表現します)の情報や、この世にいる人々の悩み解決の手助けをしています。そして彼も学び続けています。つまり、彼の人生が終わったとは言えません。

そして、私の最愛の猫の死は、私の人生の次のチャプターの始まりでもありました。彼がくれた最後の学びです。




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