N°9 - 理由は幻想

彼のどこが好きなの? なにがいいの? ――と聞かれたことはあるだろうか。私は過去に誰がどう見ても「変な人」を好きになってしまったので、そのときは当然の権利として説明を求められた。その人は過去に言及されたAでもBでもない、Cさんだ。

彼は「個性」という寓意を背負って歩く擬人像そのもののようだった。彼、と形容したものの、実際の「彼」のジェンダーは他人から見てハッキリしていない。便宜上 ジェンダー・ノンコンフォーミング(gender-nonconforming) ぐらいしか言えない。――余談: こういうとき日本語で、現在英語圏で性別不明の人に対して使っているthey にあたる三人称があればいいなと思うよね。スウェーデンにはこういうとき、Hen というジェンダー・ニュートラルな三人称が昔からあるらしい。流石だ――本人自身が決めることだから、彼とほとんど接点を持たない周りの人達から私に質問が飛ばされたのだけど、私はその答えを持っていないし、持っていても彼が明らかにしたくないのならそれを尊重したらいいし、そもそも私の関心外のことだ。
私は、彼の性的指向についてもどうでもいいと思っていた。彼が今まで女性を好きになったことがあろうとなかろうと、私にとっては何の関係もない。私にとって必要な情報とは、私を好きなのか、付き合う意思があるのか、そしてそれはいつなのかという方向性やプランといった具体的なことでしかない(金星山羊座っぽい)。簡単に言えば None of my business.
残念ながらその姿勢は全然共感されなかったが、その意味では私はパンセクシャル(pansexual)に近いのかもしれない。それを表す言葉があると人は概念を理解しやすいから、そう説明すればよかったかなと思う。周りの人は本質的にはどうでもよいことだと分かっていると思うけど、ゴシップ的な好奇心で、曖昧さがどうも居心地悪くて、ただハッキリさせたかったんだと思う。だけど仮にゲイだろうとなんだろうと、私はそれが彼を「変わり者」にしていると言ってるわけではない。私が感じた彼の個性とは、エネルギーみたいなことだ。

彼を初めて見た瞬間、というかお互いに、雷で打たれたみたいに衝撃的に目を見開いて静止していた。彼がその時私に対してどう感じたかは知るよしもないが、私は彼の強烈で個性的なエネルギーを感じ取った。受信したに近い。決して中性的なわけではなくて、男性性と女性性の両方のエネルギーを強く感じ、それが個性的に表現されていて、いいなと思った。面白かった(興味深いという意味で)。後で知ったのだが、彼は金星と火星のコンジャンクションを持っている人だったから、私の感覚はとんでもなく正しかったし、このアスペクトを持ってる人全員がこんな感じではないので(別のサインの実例で会ったことがあるが全然違った)、あくまで表れ方の一つなのだろう。

とはいえ西洋占星学を知らない人に説明するのは難しい。ただ好きだなと思った、で納得してくれるならいいのだけど。以前も言ったように*、私は99%一目惚れで恋をするから、「理由」という左脳的な説明が追いつく前に私は恋に落ちている。*関連記事はこちら

彼は私がこう思ったことなど知る由もないと思う。自分のどこが一体気に入られたのか、未だに理解していないと思う。それほど彼は自分に自信がない人だった。

彼のその金星=火星は、私の火星にヒットしたから、一言で言えば凄く性的魅力を感じたのだけど、それを理由としてぺちゃくちゃ他人に話せるわけもなく――話したところで余計にセンスを疑われ、また「何故そう感じたの?」という質問が繰り返されるに決まっていた――なんとなくとか言って濁す他なかった。

あまりにも身も蓋もない理由だし、もちろんそれ以外にも、ちょっとフェミニンな趣味なのも良かったとか、言えたけれども、結局私の感想や感性の話であって、いずれにしても周りの人達の理解を超えるほど彼は「変わった人」と否応なく分類されるのだから、初めから賛同される道はないに等しく、究極的に言えば別に共有しなければならない感性でもない。共感も必須ではなかった。だって私と彼の関係性の話だし、他人は関係ないじゃないか。個性というのは、往々にして他人に強い感情を生ませるし、評価が極端に分かれる定めであるから、万人に好かれたいとか受け入れられたいという想いは端から諦める他ない。天王星みたいなことでそもそもが馴染む性質ではない。

きっと私が今恋している別の人も、何故自分のことを好きになったのか、どこが好きなのか、疑問に思うと思う。

だけど、「どんな理由ならばあなたは納得するの?」と言いたい。

理由が本当に必要か?
正当な理由がなければ、自分は好かれないと思うのか。自分の魅力を自分で認められていないのか。

愛は説明のつく合理的なものなのか? そもそも。というところに行き着く。だとしたらこんなにも人類を長いこと悩ませたりはしない。愛は、本来の性質として、モラルや常識を超越した力だ、と私は考える。
芸能人の不倫だなんだと、やたら大衆が騒ぎ立てるけれども、これについて行き過ぎなぐらい罰したい人達は、強力な愛を体験したことがないか、信じていないが為に理解できないに違いない。そもそもがそんなに惚れっぽくないとか、頭で恋愛をする人なのかもしれない。だけどそれは愛を味わったわけではないと思う。
(...もちろん不倫や浮気を続けろと容認しているわけではないです。ちゃんと責任を持って対処しない場合、人間として誠実ではないし、信頼を裏切る行為に変わりはないけれど、それについて起こるいざこざは当事者間で話し合うべき個人的問題であって、全ての情報を持っているわけでもない外部が正義感を盾にジャッジしたり、干渉することではないと思います。ただ、常識に反する相手を好きになってしまうこと自体はありうるし、それに正しいか/正しくないかというジャッジを下したり、あるべき姿というフレームを決めるのは別の問題なのです。何故なら恋や愛(つまり心)は頭を凌駕するからです。そして、高次の愛、真実の愛は、しばしば人間社会の常識を超えて表現されることがあると言いたいだけです。モラルを超えたものイコール真実の愛という意味ではありません。たとえ世間からは最終的に略奪愛と認識されても、実際がどのような経緯であったか、当事者たちの詳細や心境などは知る由もありません。また、これは特定の誰かについて言ってるわけでもありません)

「アモールが矢を放つ」という発想は、実によく愛の性質を捉えている。人間からしたら、愛は複雑で扱いにくい。時に不可抗力的で、非合理で、自分でもなぜ愛しているのかわからないほど不思議で、魅惑的で、且つ強力だったりする。
西洋(欧米)ではきっと愛に対してこの考え方が土壌にあるために日本社会よりは窮屈ではないと思われる(異性愛ならね)。そもそも他人の色恋なんざ突き詰めるとどうでもいいに等しく、個人間で片付けるべき問題をさも社会問題かのように扱うというのは現実逃避だ。いい子ちゃんだらけの芸能界など誰が望んでいよう。結果的に今の、学級委員長が支配したクラスルームは何も楽しくない、誰も得していない。私は昔の芸能界の過激さを知らないものの、芸能人というのは一般社会からあぶれた人達であって、トランス・サタニアンのようなものという認識だ。だからこそ非日常を提供してくれるし、その世界に住むことができる。彼らに「非常識な楽しさ」を期待しながら、「雁字搦めの常識」をぶつけるのは、おかしい。私たちはそもそもごく普通の人間をエンターテイメントとして求めてないはずだ。よって、責任を取らせることで、不倫が芸術(作品)を妨害してもよいという考えは、それを求めるということは、即ちその社会が未熟であると言わざるを得ない。


三島の言葉を思い出した:

(前略)それは、私が前からたびたび言うように、芸術の政治化であり、政治の芸術化である
その結果どういうことが起きるかは予測できないが、はなはだ簡単なことを言えば、芸術の上では百万人の人を殺しても、ただ紙の上で殺すにすぎないのに、一たん現実の行為に入ると百万人の殺人は歴史上ぬぐいがたい罪になるのである。すなわち芸術はどこまでいっても無責任の体系であるのに、政治行為はまず責任から出発しなければならない。そして政治行為は、あくまで結果責任によって評価されるから、たとえ動機が私利私欲であっても、結果がすばらしければ政治家として許される。また、動機がいかに純粋であっても、結果が見るもおそろしいものになった場合に、その責任はみずからが取らなければならない。
現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行われることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあると言えよう。
――「新恋愛講座」より「若きサムライのための精神講和」 P. 248 / 三島由紀夫
*太字は私が勝手につけた


話を戻そう。愛は不可解だ。

その悩ましく獰猛な性質を、我々が勝手に、社会的に、宗教的に、時代的に、あらゆる形によって躾けようと試みているに過ぎない。

とはいえ、これも私の心の裏返しでもあって、自分が存在するのに理由がいるとか、愛されるのに条件がいるとか、正当性を求めていた時代が長かった。

しかし存在には人間が考えうるような目的はないと思う。それも社会的な。生きている限り、人の役に立たなきゃいけないとか、何々をするべきだとか、そうした目標や方向性、役割や使命はないと思っている。そもそも社会とは人間が勝手に作ったシステムで、固定されたものではなく常に変化する頼りないもの。社会が生み出される前に人間は生まれていたのだから。効率的に生き延びるために暦を作って、時間という概念を生み出して、集団生活のために統率できるシステムを構築したに過ぎない。つまり人間のために社会は出来たのだから、社会(仕事など)のために人間の存在ができたわけがない。

ただ人は存在している。理由に先んじて。

よって、仕事をしていなきゃ存在してはいけないとか、飯を食うべからずとか、愛されているから存在していいだとか、良い働きをするとその存在の価値は高いだとか、そんな理由は後付けで考えつくことで、人間の脳を納得させたいだけだ五月蝿くて非難がましいマシーンを黙らせたいのだ。不満足な形で存在し続ける自分を許せないという、真面目過ぎる感情だ。

理由はない、という曖昧なものを受け入れられないだけだ。

どれだけ有用か、有能か、利益を生むか、価値があるか、害はないか、という評価の仕方は、牡牛座以降の地のサイン的な発想であって、「ただ存在している」という漠然とした様が、存在の本質で、牡羊座的だと思う牡羊座が一番最初のサインだからね、後のことは二次的なんだ。そりゃ生きるために、生き抜くために、という動物的なことはあるかもしれないけど、私が言いたいのは、何のために生きるか、何故生きているかも同じことだということ。

だってそれらは「男性性」の発想だ。無駄が許されないシビアな世界観だ。どれだけ迷惑をかけたり、手間がかかる存在だろうとも、効率が悪かろう、能力が悪かろうとも。私たち人間が「無駄」と捉えてしまうだけで、存在の理由は抽象的なものなのだと思う。

生まれ変わりは、個人的にそんなに積極的に信じているものではないけども、なぜ我々は生まれ変わるのか、なぜ魂は成長を望むのか、みたいな問いも、結局は私たちを満足させる答えを持っていない。そんな気がする。

私たちが許さなくても、我々はただ生きているだけで存在することを許されている。そう思おうじゃないか


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