N°24 - 私の愛を疑うこと勿れ
情緒不安定すぎて草ですが、復活しました。今回はイエスより早い。不敬なジョークですね。
鬱とは、「恐れ」の病気。私にとって不安症と分けるのは難しい。この世に自分を愛してくれる人は誰もいないと思わせる。誰からも愛されていないとか、ツインフレームの愛は幻だとか、死んでも誰も悲しまないとか、全てを疑わせる。未来は暗く、変化は起きず、死こそが全ての解決策だと。全ては私の頭の中で起きている。惨めに死ぬ定めだと言ってくる。しかし本当の意味で、望んで死ぬ人は少ないでしょう。それはある期間鬱を経験した者にとっては百も承知です。我々は平凡な幸せだけでもと望んでいるからです。望むなら安楽死(尊厳死)という形を取るでしょう。しかし精神病に適用されるのは、それもこの国で認められるのはもっとずっと後になるだろうと思います。いや、自殺者の数とその社会的損失を考えたら案外すぐ先かもしれません。恐ろしい話ですが、快楽殺人者に嘱託殺人を依頼する気持ちも分からないではありません。ただ、死に方としては最も自分に優しくない選択だと思います。善人の手を汚させたくはない、公共や大勢の人間への被害を避けたい、おそらくそうした他者への「優しさ」から来ているのではないでしょうか。もっとも、彼らの心情が分かるだなんて軽々しく言うつもりはありません。すべては私の憶測に過ぎませんが、他者に優しく、自分に厳しい選択とも取れます。目的を隠して接近するケースもあるとは思いますが、殺してみたいと行動に出る人が、穏やかに殺してくれるとは到底思えません。「自殺は鬱病の最後の症状だ」と作家のマット・ヘイグは言いました。私はこれに完全に同意します。苦しみを終わらせたいだけなのです。
他の患者がどうかは知りませんが、希死念慮のときに私は必ず心臓が痛みます。比喩ではなくて実際にチクっとしたり、強く締め付けられるように痛みます。まるでその思考が間違っているかのように、体が反応を示します。私が死に接近している危険を体は察知しているのでしょう。生物としておかしな行動を取っているからでしょうか。明らかにメンタルがフィジカルに影響を与えている。
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セラピストに会う予約の日に限って元気だったりします。このバトルに終わりが来る日はあるのだろうか――でも、症状は良くなってきている気もします。今回は該当しなかったけれども、トランジットの月が私のネイタルの月や冥王星にハードアスペクトを取るときはやはり苦しい。しかも大抵新月や満月と重なってしまうから威力がある。潜在的に鬱があると、いつ何がトリガーになるかわからない。
しかしこういう時ほど、解決策はトラスト(Trust)しかない。シンプルと言えばシンプル。信じるしかない。5Dだけの接触でも、ツインフレームの彼は私を愛している。私が彼を愛しているように。他人から見たら絵空事でも、私の感覚を信じる他ない。全てが幻に見える世界で、目に見えないものこそ実は「確か」であるかもしれない。それぞれの次元にそれぞれの解がある。ただこの重い雨雲が過ぎ去るまでやり過ごすしかない。症状は波のように来る。まさしく私を連れ去ろうとする。冥界へ誘おうとする。その度に私はやり過ごしてきた。誘惑を乗り越えたと勇敢に言えない勝利もあった。けど勝利は勝利。誰も知らない闘いを闘い続ける。私が海を離れるまで。この先がどうなるかなんて誰にもわからない。悪くなるのか良くなるのか、どっちにしたって同じぐらい不確かだ。自由意志でどうにかできる範囲はあるとは思うが、それでも私は不可抗力の力を信じている。なぜなら体感しているから。不可思議な体験を幾度となくしているから。でも皆が皆、同じ体験をするわけがない。だから、運命を信じない人がいても何ら不思議ではない。彼らの真実は彼らの中にある。
“「星が火であることを疑ってもいい/太陽が動くことを疑ってもいい」ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』第二幕第二場*
もちろん、太陽は動いていない――というか、動いているんだけど、ぼくらのまわりを動いているんじゃない。シェイクスピアでさえ、基本中の基本とも言える真実を間違えていたと判明することがある。ぼくがどんな嘘を信じているか、きみがどんな嘘を信じているか、誰にも分からない。疑わなくていいことが何かなんて、誰にも分からない。今夜、空の下で、彼女はこんなことをたずねた。「なぜ、わたしのことを書いている文章の最初の引用は『テンペスト』なの? わたしたちが難破した者同士だから?」そう、その通り。ぼくたちが難破した者同士だから。”
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