N°52 - XIV TEMPÉRANCE: ADAGIETTO, ELIXIR
Oct6 - 大幅な追記あり:『節制』のカードと死後の自己肯定感
Adagietto, Gustav Mahler. Symphony No.5 in C sharp minor, 1901-02.
Leorard Bernstein, 1973.
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The Heart Asks Pleasure First, Michael Nyman.
LOUIS VUITTON, Towards A Dream Campaign.
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Am I manic Or just fine.
Endless silly cycles. Whyyy so immortal.
I know the deal...
追記(Oct 6): Temperance (After "Death") and Regaining Self-esteem
私には定期的な死が用意されている。私がまだ未発達なところを突かれてる。マスターしたら無くなるのかはわからない。このサイクルに疲れはする。死と復活、死と復活の繰り返しで。一体なにやってんだと私だって思う。
落ちてるとき、やはり自己価値感は限りなく低くなる。そうすると豊かさを受け取れなくなる。自己価値感は英訳ですっと出てこない。self-esteem がそれにあたると思う。辞書によると自己肯定感と訳されていた。そしてニュアンスは:
- self-esteem は個人が自分自身をどのように評価しているか、つまり自己評価の感情的側面を指す。この言葉は、自己尊重や自己価値感とも関連が深く、個人の内面的な価値や能力への信頼感を表す。一緒に使われやすい単語は、confidence 自信、respect 尊敬、positive 肯定的な。
- self-worth は自己の価値に焦点を当てた言葉で、自分自身の存在が意味を持ち、価値があると感じる状態を指す。この表現は、自己尊重や自己評価と重なる部分があるが、より内面的な価値観に基づく自己認識に重きを置いている。一緒に使われやすい単語は、value 価値、dignity 尊厳、intrinsic 内在的な。
そう、どちらも評価や信頼だ。ここが毒親育ちの難題と言っていいが、如何に、これまでの踏みつけられた経験と、褒められるどころか無価値だと浴びせられた洗脳から、脳と心と神経とを回復させるかという課題がある。十中八九皆ここにつまずいている。大丈夫と思ってもこうした揺り戻しがある。そもそもが正しい自己認識というのが備わっていない。何が正しいのかがわからないのだ。まず自己評価を低くしてしまう。ゆえに、それが他者からの褒め言葉を心で受け取ることを難しくする。疑うからだ。これも「信じる」必要が出てくる。実績などで測る立軸の評価も必要だが、そもそも自分が存在することに意味や価値があるという無条件の肯定感や自分には可能性や能力があるという現在と未来への信頼(横軸: 評価がない)が私たちに欠けている。これを私は男性性と女性性と言っている。
毒親による子育ては、その反対をやれば理想的な子育てであることを示している。例えば、事故で両脚を切断した少女が家族からの「あなたはできる」という言葉やサポートをかけられることで健常者が行うサーフィンの大会で優勝するといった事例があるように、毒親のする育児或いは何かをしない育児というのが、如何に人間を壊すことになるか、逆に育て方一つで如何に人間を生きさせ、飛翔させられるかというのを示している。残念なことに、虐待は連鎖的に見られることがあり、両親に未解決の傷がある場合、自分を愛することができていない、そもそも愛というものがわからない、適切な愛情表現がわからない場合、彼らは我が子を鏡のように見て酷く扱ってしまう。そして、とても最悪なことに、こうした abuser は己の問題点に気付かぬまま癒さぬまま、精神科医やセラピストの資格を取って働いてしまうことがよくみられるそうだ。良い人になかなか巡り会えない問題はここにもある。実際に私の親も内観すらしないまま、こうしたカウンセラーになりたい意志を持っている。癒してくれればいいのだけど、ナルシシストは謝ることができないから、彼らから、心からの謝罪を受けたことも目の当たりにしたこともない。もちろん、非を認めることもできない。
私が常日頃思うのは、自信とは根拠のないもので元々だということだ。自分を信じると書くわけで、「信じる」という行為は根拠を必要としない。というか、必要としちゃいけない。根拠があるならそれは信じたことにならない。それはただの事実、ただの評価だ。そして、信じることによってエネルギーが注がれているように思う。ブーストみたいに。RPGで言えば攻撃力UPみたいな効果が出るのだと思う。しかし、根拠がないからこそ信じることは難しい。我々が神よりも科学を信じやすいのはそこにある。(私たちは信じたいものを信じる)。そうなると先程言ったように実績のみで評価することになり、それは人生で上手くいかなくなったときや、他者からの評価があまり良くないときに自信喪失の問題に再び直面することになる。つまり、根拠のない自信こそ最強であるということ。それは常に自分を信頼できているのだから、あらゆる外側の条件に影響されることがない。このマリオがスターを取った時のような「無敵状態」は大変魅力的だ。確かに、愛されて育ってきた人の中にはこうした人がいるが、しばしばそれはそれで外側からの客観的な評価と本人の自己評価とが随分乖離していることもある。それで嫌われていることに気づかない、か、痛手を追わず自己の振る舞いを変えようとしない。本人は幸せそうだけど。
この時期、たったワンコインのメモ帳でも、それを貰って申し訳なく思う自分がいた。私はこの人の役に立てているのか、釣り合っているのかと。正常なときにそんな不安は(ほとんど)ない。だけど現実に揺り動かされ、正気を失うと、潜在的に抱えていた自信や自己価値の問題を突きつけられる。
私の成し遂げたことはすべて「目に見えないもの」だから、多くの他者に be seen, be heard, - つまり見たり聞こえたりするものではないから気づかれにくい。余計に過小評価してしまうし、こういうときは精神的な実績を忘れてしまうか、それがあったからなんだという元も子もない疑いが出てくる。私の場合明らかにこれらは2hに関連しているし、鬱病のメジャーな症状のすべてが出る。自分の扱いを粗末にしてしまうし、そもそも活動するエネルギーが枯渇している、視野が非常に狭くなる。かといってそれを黙らせて無理やりポジティブに舵を切ろうとするとそれは嘘っぱちで、かえって悪化させる。
先程豊かさを受け取れないといった。それはつまり、食べなくていいやとか、適当でいいや、これを貰うのは悪いわ、こんな私にサポートは要らないわ(欲してるのに生を肯定できず諦めようとする)、という感じで、自分の(身体の)ニーズをネグレクトしようとする。最近『風呂キャンセル界隈』というのが話題になって、『蛙化現象』のときと同様またしても意図的に(私はそう考えている)メディアは間違った認識を広めたが、これは「入りたい意思はあるのに鬱病などの症状で入れない、気力がない」人達の話である。実際、入浴はシャワーであってもかなりエネルギーを必要とすることだからしんどいというのはあるが、鬱病などの精神病が身体のハイジーンに関わるのはよく見られることで、OCDだったら逆に過剰に洗浄する。私の体験から言って、自分という身体にも価値を感じなくなるのでわざわざ手間をかけてケアをする気持ちになれないというのがあるし、こういうときはシャワーの水が痛く感じると言われるがそれも分かる。いつもより刺激が強いときがある。痛いときがある。
そして何故か罪の意識がある。直前の投稿(N°51)を見てもらったように『吊るし人』の状態だった。まるで自分を罪人かのように思い、自分を罰したい衝動や自己破壊行為に出ることがある。私は身体を痛めつけることはしないが、結局は同じようなことで、自分をぞんざいに扱うことが(今の)自分に相応しいと思ってしまうのだ。吊るし人は罪人のポーズをしている。近年だとそれは Sam Smith & Kim Petras - Unholy のMV(Link)に観ることができる。男が車のボンネットで逆さになり、片脚を曲げている! この曲は性的なテーマがあるから、角を生やしたデビル的格好のプロモーション写真やパフォーマンスもあり(例えば彼のyoutube post(Link)に)、『悪魔』のタロットカードにもピッタリなのが一石二鳥でお得である。図らずも、サン=テグジュペリが夕日を慰めにする心理がわかったし、私が蒔いた種ではあるのだけど、彼と王子の最期を少し紹介したときに彼の暗さに共感するだけでなく、私の現実的なトラブルの発生がリンクしてしまった。しかもまた、トランジットの月は私のネイタルの月の位置に近しいところに来ていてやっぱりこのタイミングや月相は苦しいことが証明された。
それで私はこの記事の中でアダージェットによって少し復活してきたから「エリクサー/ELIXIR」と書いた。私が当初ここに『死』のカードしか紐付けなかったのは、12番『吊るし人』の次のカードにして、終わりと始まり、つまり、禊は終わったと思ったからだ。どういうことかと言うと、ネイタルの月=冥王星スクエアは断続的にこうして精神の死が繰り返される傾向にあるから、一度「死んだ」ことがカウントされ今回のターンは終わったと思ったのだ。吊るし人の状態は手も足も出ない、ただ変化を待つのみだから let me take in と思うのだ。もちろん、ここで視点を変えられたらいい。
天は、「私が現実にどのように反応するか」を見ているというが、この視野の狭さと自尊心の欠如、現実的な危機的状態のときに希望を見出した視点を信じ切ることは難しい。最終的にはそれをすることによって生き延びる他ないのだけど、処理に時間がかかる。
暗い曲から始めてクラシックを聴く頃には多少快方に向かっている。マーラーの『アダージェット』を聴くことによって私の精神は徐々に癒やされた。だからふと思いついて(ほとんどFFのハイポーションやケアルガやレイズを思い起こして)、エリクサーと書いたのだけど、この穏やかな復活は次の14番『節制』に相応しいし、RWSの『節制』に描かれた液体はエリクサーであるという見方があるらしい。驚きだ。万能薬という意味なのは知ってたが、賢者の石のように、不老不死の効能があるらしい。だから13番『死』の後なのか。面白い。でも、私自身は不死を望んでいないのだけど。何回も繰り返されるこのサイクルにはうんざりしているし、消耗するし、終わりがないことには耐えられないんだけどね。永遠の愛は美しいよ。そうであったら素敵だと思う。だけど永遠の命って怖くない?
"EVERYBODY DIES," THAT'S WHAT THEY SAY
AND MAYBE, IN A COUPLE HUNDRED YEARS,
THEY'LL FIND ANOTHER WAY
I JUST WONDER WHY YOU'D WANNA STAY
IF EVERYBODY GOES
YOU‘D STILL BE ALONE
- EVERYBODY DIES / BILLIE EILISH
まあ、吊るし人、死、節制、のシークエンスを人生で何度も体験していたことに気づけたのは良かった。さっきまで死にかけてた者がこんなにベラベラとまるで賢者タイムみたいで恥ずかしいのだけど(大草)
死後ということで、死後に発表された(Posthumous/Posth.)好きなクラシックもここまで読んでくださった方のために載せようと思う:
F. Chopin: Nocturne C-sharp minor Op. posth.
Wladyslaw Szpilman "The Pianist" plays.
Recorded in 1997.
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