N°45 - 男性の世界: 恋愛や感情と切り離されてきた歴史と、性別を一つの連続帯として認識する必要性

感情の話と、それに関連して性別を分離ではなくスペクトラムで見るという話をさせてください。長いこと感情の扱い方に悩んできました。実際これには個人差があると思います。感情の揺れが大幅な人もいれば、表に出すことを好まない人もいます。基本的には私もそうですし、人前で泣くことは苦手です。誰が近くにいるか、職場なのかプライベートのシーンなのかにもよりますよね。また、後述するように、主に男性たちは社会的•文化的な教育によって感情とその表現を抑圧されてきたことが関係するかもしれません。
  • 例えば私の例で行くと具体的には、子どもの頃の私は泣き虫であり、自分だけでなく周りの人の感情も流れ込んできて混乱したり圧倒された感覚がありました(エンパス)。しかし、もう一人の私は泣き虫を常に強く否定していました。「これぐらいのことでめそめそするな」と叱るのです。そう言ったところで涙が止まるわけもなく加速します。なぜなら感情とはそのようにできていないからです(感情は感じ切ることで消えます。抑圧するとやがて爆発します *1)。周りは私の突然の涙にあたふたしますし、しばしばそれは周りからすると原因不明なもので、泣かれたことによって責められたように感じ気分を害する同級生も当然いました。当時私は彼らの立場に心から同情し、さらに自分を責め続けました。
  • これを今分析しますと、1) 精神的な虐待を受けたことによって発生した、対処しきれないほどの大量の深い悲しみの感情があることは正当(valid)な反応である。でも繊細さを弱さと見做していた。2) それが小さな出来事をきっかけに(主に自分責めをしたことで)ダムが決壊し溢れてしまう。3) 感情を扱う術を知らず、親に感情(表現)を受け入れられた経験もないことで、感じたり表に出すことを否定する「自分責め」が出来上がった。4) 自分の感情を軽視し、他者の感情を優先した。他者との境界線も無自覚で曖昧だった。5) そもそも私の頭に鳴り響く批判の声は「私の声」ではなく「両親(が持っている批判)の声」であった。同様に私が感じていたのは「私の感情」ではなく(私から生みでたものではない)、「彼らの感情そして彼らの傷」が私に転嫁されたものだった。――ということを、最近になってようやく頭と心で理解しました。
私はこれから性別を交えて述べますが、後に詳細を言うとして、男女、正確にはジェンダーは一つのスペクトラム(連続帯)であります。しかしまずは、分離して考えられてきたことからの影響を見ていきます。今や非常にデリケートなテーマとなり、私があれこれ先に弁明しなければならないことをお許しください。私が男性の感情問題について語ることが適切かは分かりません。しかし私なりの意見を申したいと思います。

♠︎ 日本では、男は恋愛と関係のないもの、恋愛は女のもの、そして感情及び芸術も女性的とされてきた

男性なら特に感情を表さないように教育されたことが多いことでしょう。そして社会は男性が感情的になることをかなり長い間容認しませんでした。私の世代でもそうですし、世界的に見てもそうです。でも当たり前ですが、人間には誰しも感情があり、心があります。それを分断されることは恐ろしく有害で理にかなわないものです。軍隊の名残りなのか知りませんが、感情の扱い方を学ぶのではなく、無きもののように否定するのはどう考えたっておかしなことです。感情とは、恥ずべきもの、厄介なもの、理性に比べて愚かなものとして見なされてきました。そもそもメンタルやメンタルヘルスというものに注目するようになったのもだいぶ後世のことです(私の代では不登校や保健室登校も一応ありました)。そのため、あるyoutuberは私たちの上の世代(親世代ぐらい)は、「メンタルに個人差があるということを知らない世代なんじゃないか」とも言っています。女性たちも、男性たちが感情や繊細さ(vulnerability)を見せる機会を非難せずに受け止めることが必須です。

恋愛のシーンで、「男性の気持ちがわからない。知りたい」という女性の悩みが占い界で非常にポピュラーであり続けることが、男性が本人の感情と複雑な関係を築いていることと、それを形作った文化的背景の影響力を示しています。これが両者のすれ違い、誤解、コミュニケーション不全の要因であると言っても過言ではありません。また、三島由紀夫はこのように指摘しています:

日本では男は恋愛と関係のないもの、恋愛は女、そして感情及び芸術、そういうものにゆだねられている。男は政治、軍事、道徳、それらにみな限定される。両性が全然別々に分かれてしまうのです。女を除外した、男の道徳が一番完成したのが儒教道徳の影響を受けた武士の道徳であります。武士の道徳では、恋愛は非常に軽べつされ貶められてしまった。とにかく、江戸文化三百年の泰平の間に恋愛哲学をわれわれは持っていないのです。そして、恋愛はみなめめしいものと考えられていたので、結局恋愛を描いたり、うたったりしたのは武士ではない、町民の間から生まれた文学であります。江戸時代では、近松の浄瑠璃が一番男女の情をうたったものですけれども、その近松ですら、自分の書いた恋愛劇を自分ではかろんじていた。そしてむしろ自分の時代物という人間の忠義とか勇気とか、男性的な道徳にのっとった芝居の方を自分で重く見ていたのです。そして恋愛とはすべて近松のように感情的に浄化されるか、そうでなければ、放蕩的な全くの遊び事として発達してきた。ですから江戸時代ほど放蕩的な文化が盛んになった時代はちょっと考えられないくらいです。いわゆる遊里の文学が盛んになって、恋愛というものはなくただの肉欲の遊びが極度に洗練されてきたのであります。
- (色付けは私の独断) 新恋愛講座 p.17

日本では男性は恋愛や感情の世界と切り離されてきたというのです。よく欧米人が愛を語ったり愛情表現をわかりやすくするのに比べて、日本の男性はシャイだなどと言われますがここにルーツがあるのでしょうね。彼は西洋と日本の恋愛観を比較して論じています。西洋はだいたいにおいて、ギリシアの恋愛(プラトン)とキリスト教の恋愛が絡み合っている。対して日本は恋愛について哲学的背景を持ったことはなく、彼曰く、日本人にとって恋愛は「本能プラス感情」。恋愛と哲学は全然別物だと思ってきたし、なんなら非常にいやしいものという見方をしてきたといいます。しかし明治維新以降、急にどさっと西洋の価値観が入ってきて、ギリシャの恋愛、キリスト教の恋愛、日本の恋愛、その3つがめちゃくちゃに入り乱れているという解釈です。

♠︎ 男性は気持ちを察するのが苦手だと言われますが、感情を学ばせてもらえなかったのにどうやって汲み取れと言うのでしょう。

確かに男性脳、女性脳のような、理性型、感情型というのはもしかしたら性別によって傾向があるのかもしれない。だけどその調査研究があったとして、そこに男性の感情を否定する教育を受けてきた対象が含まれているとしたら、フェアとはいえません。

メルちゃん』のサイトによると、慶應義塾大学との最新の共同研究で、『メルちゃん』でのお人形遊びが、男の子の言語能力の発達と、心の発達に良い影響を与えることがわかったようです: 
"一般的に男性の方が人の気持ちを察するといった心的状態の推察が苦手な傾向がありますが、お人形遊びを用いたごっこ遊びで他者の心を理解する力、相手の痛みに対して共感する力などを含む「社会情緒的能力」がよりよく育まれる可能性は高いです"

♠︎ 私がいつも思っていることは、性差を必要以上に与えているのは、大人たち人間であるという事実です

恐竜や車のおもちゃや実験や外の遊び好きの女の子はいるし、ごっこ遊び(いわゆる、おままごと)や人形遊びやお絵描きやピンク色が好きな男の子だっています。それを「おかしい」と判断するのは子どもの感情を無視した大人の価値観です。ありのままのその子を受け止めないことにより、子どもは純粋に吸収するので「ありのままでは愛されないんだ、ダメなんだ」というメッセージを受け取ります。とりわけ後者となると、「ゲイに見られるかもしれない」という親の不安が上りやすく、それは子どもに「ゲイっておかしいんだ、女の子っぽいっておかしいんだ」という教育になります。人と違うこと、少数派であることを恐怖に思うのです。それでもし、子どもがゲイっぽいと認識された特徴の子をいじめたとしたら、それは親がそのジャッジをしているから、子どもがそれを正しいと思う認識を持っていたという場合が多いでしょう。未だに男の子の玩具、女の子の玩具という区分けで販売されることが多いですが、子どもが本当に好きなおもちゃを選ぶ前に、大人が枠を決めていないかという疑問がいつもあります。

実際に、振る舞いなどに対して強要されるときに使われる「男らしさ」や「女らしさ」とは何ものかと考えるときに、それは突き詰めると人間の頭の中にしかない、実体のない概念ではないのかと思うのです。誰も「人間らしさ」とは言わない。これは実際の姿ではなく、私たちの作った理想の観念です。私たちは当然のように男女とは完全に異なった構造を持つ、しばしば分かり合えない「別の生き物」だと幼少期から教わってきています。それは奥深くまで浸透しているので、個人的•社会的影響の深さは計り知れません。

でも私はなにも、日常からまったく性差をなくし、画一的にし、完全に語ることをなくそうとは思いません。本来性別やジェンダーや性差とは楽しい自由な世界です。マスキュリンやフェミニンという言葉を使うことが悪いことだとは思いません。強要することが問題です。着たい服を着ればいいのです。周りがどう思うかに関係なく、本来の自分というものを表現をすることが私の答えです。そして私はジェンダーをエネルギーだと捉えています。そうです、少し抽象的に捉えています。
だけどここで注意していただきたいのは、TVだけでなくYoutube等も含めてメディアを通してこのテーマが語られる場合、二項対立や二元論の結論になりやすいだろうということです。なぜならその方が盛り上がるから。話題になり、視聴•コメントされるから。実は奥底で解決を目的としていない可能性さえあります。コンテンツが減るからです。感情や対立を煽られる作りになっている場合もあります。身体的に違いがあることは事実ですし、それによる向き不向きの傾向はあるでしょう。しかし、シンプルな話、私たちが同じ人間であるということは忘れがちなのです。

「男性が強気であり続けなくても(社会に)受け入れられれば、女性が従順であるように強要されることもないでしょう」*2

「今や、性別は1つの連続帯(スペクトラム)として捉えるときです。2つの対立する理想ではなくて」*3

これはエマ・ワトソンによる非常に良い言葉で、「分離」ではなく「統合」の意識で語ることです。つまり男性の平等を守ることは、女性の平等を守ることであり、この2つは連動します。というか同じ1つの運動ですこれは鋭い指摘です。この「スペクトラム」を私の理解をもとに説明しますと、「虹」を7色個々の色として見るのではなく、7色が地続きした一つの虹として捉えることです。そしてその色の境界線とは曖昧なものです。

フェミニズムとは男性敵視と同義ではありません。男女が平等な権利と機会を持つこと、経済的•社会的男女平等の理論です。では男性の平等とは例えば何かと言いますと......
  • 男性が精神病を患っていても「男らしさ」を失うことを恐れて、助けを求められないでいること
  • 男性が自分の気持ちを表せずに苦しんでいること
  • 父親の親としての役割が社会で軽視されていることも、問題です。
(多くの場合)女性を、セクシャライズ - (sexualise, sexualize: [特に不必要な場面で意図的に] 物や人に対して性的な特徴を付与したり、性的な見方で捉えたりする行為) - をしたり、対等な人間としてではなくオブジェクト(対象,物,非人間的)として見たり扱うこと、性関連コンテンツをゾーニング(区分け)することだけが、男女平等運動ではなく、

私たちがありのままで、人間らしくいられることです

シンプルな話、いつもいつも性別というフィルターをかける必要はないのです。彼女の言葉は、未だ日本社会に蔓延するあらゆる誤解や対立を解消するとてもいい言葉だと思いました。そしてこの有名な、無駄のない彼女のスピーチは是非とも聴いていただきたく思います。幾つか日英字幕つきの翻訳動画はありますがお薦めの "HeForShe" Emma Watson のスピーチはこちらです。

♠︎ 私がしている感情の対処の仕方

  1. まずは感じるということです。ネガティブな感情だろうと感じることを自分に許可してください。感じ切ると闇落ちから浮上します。抑制するより開き直って感じる方が復活のスピードも早くなると思います。一人になれる場所、シャワー、雨の日の傘の中、悲しい曲、泣ける映画、車の中、カウンセラー、自分が安全だと思う場所で泣いた方がいいです。外の空気を吸うだとか風を感じるとか、自然を見ると不思議とぼーっとできます。確かにやってみると、あのときほど豊かな時間はないかもしれません。充足感があるのです。海や沢といった水の音が落ち着くかもしれませんね。動画で聴くのもいいです。私は感情を意図的に麻痺させていた時期がありましたが、その後遺症で泣きたくても涙が出ないときもありました。そういう自分を守るためにやってきた過去の対処についても責めないことです。段々と感じることを許すのです。カタルシス。願わくばハグをすると落ち着くでしょう。この際ぬいぐるみだっていいです。怒りの表現はより難しいですが、やはりこれも人を傷つけない形でなるべく出しましょう。格好悪いとか居心地悪いと内心思っていても私は出来るだけ止めずに出させるようにしてます。
  2. ネガティブな感情を恐れない、否定しない。自分の一部を否定することになりますからね。ありのままを受け止める。無理矢理ポジティブになろうとしないでください。それは嘘です。『インサイド・ヘッド(原題: Inside Out)』という素晴らしい映画がありますが、それがまさに伝えていることです。これには童心の描写もあり、ジョークも多いので面白いし泣けます。(2は観てない)
  3. 自分を責めない。これが一番でもいいぐらいです。これに尽きるぐらい、自分責めにいいことがありません。過去の失敗、出来事、黒歴史、後悔、憤り。許してみる。長年抱えたものもあるかと思います。すぐに手放せなくても責めない。怒りは二次感情なので背後に別の感情がないか探ってみます。自分を許す項目が増えれば増えるほど、他人を許せる項目も増えます。逆に、無性にムカつく芸能人や周りの人が居た場合、それは自分にも許していない事柄を示しています。柔軟性を持ってルールを緩めること。実は押し殺した自分の願望が隠れている可能性も。例えば美容整形は悪だとか。――さらに言うと、「全部を許せない」自分のことも許します。とにかく甘くするのです。
  4. 携帯の電源オフにする。TVや携帯などテクノロジーを見ない•触れないだけでなく、騙されたと思ってオフしてみてください。格段に自分の内側と繋がりやすくなります。そこで何か思いついたらメモを取ります。話しかけたりして。メカニズムはN°36で。仕事で使っている場合、「仕事や必要なとき以外は使わない」と宣言して出来るだけデジタル•デトックスをします。最近はSNSを観る機会も減りました。大体同じことを目にするし、もう知ってるし、必要な情報は必要な時にやってくるし。
  5. 日記やジャーナリングなどで自分の内を書き出す私の場合はiPhoneのメモ機能に書いてます。誰にも見せない安全な領域で、何のジャッジもせずにありのまま記します。感じたこと、思ったこと、気づいたこと、嫌なこと、許せないこと、何でも思いつくままに。私は何のルールも設けていません。ルーティンが嫌いなので毎日何個などの決まりもないです。何かを紙に書いて破り捨てるのもいいでしょう。
  6. 「自分で」タロットやオラクルカードを引く。悩ましいことに、不安だったり苦しいときほど占いを必要とします。誰かの占いによって癒され元気が出ることもあると思いますが、望ましいのは自分で引くことです。ただし、客観的にメッセージを読むために私は、最初から意味が付与されているオラクルカードを選びます。新たな視点をくれることが分かっているデッキを選ぶことです。それも私は高次の存在(ハイヤーセルフ、神、天使、マリア様など)と想定しているので設定上、私より高い視点から得られることになります。誰にでもお勧めできる方法ではないかもしれません。そもそもどんなときでも自分と自分の将来を信じ切れる人なら占いは必要ないと思っています。
  7. 妄想の中で、インタビューされている体で過去の体験や気持ちを話してみる客観的な視点が得られると思います。少し感情と切り離せるので心の負担も軽いです。結構無意識に始めてます。非公開で、他人に説明するかのようにブログを書くのもいいかも。
  8. インナーチャイルドを置き換える。小さな自分と言われても何の想像もできなかったので、かわいいかわいいピカチュウをイメージしました。ピカチュウが泣いている、怒っている、と想定してみるのです。そんな形で何かに置き換えると、自分に優しくするのが少し簡単になるはずです。チョコレートを食べちゃうとかね。
  9. 癒そうと思わない。がんばらない。これは意外なことですが、アニータさんが著書で言ってました。癒したい、癒そうという思いを手放す。その方が癒されると。やっぱり無理強いをするだとか、がんばるというのは経験上本当に良くないです。ベクトルが逆なのです。これ以上がんばってどうするのですか? がんばり続けているから、苦しいし責めてるし行き詰まっているのです。だったら反対のことをしなくてはなりません。
  10. どんな自分も過去も愛され、許されている、と思って(仮定して)みる神秘主義が受け入れられなくても、あなたがどのようにあなたを見ていようと、太陽光が変わらず降り注いでいるように、大いなる何かは何の批判もせず、罰も与えず、無条件にあなたを愛していると仮定してみてください。信じなくても仮定でいいです。
♠︎ おわりに

最近は、スーパーのお菓子コーナーに男性がいるところもよく見かけますし(だけど私に出くわすと大抵すぐに選び取って去ってしまう笑。ちょっと申し訳ない)、甘いものを食べていたり、ちいかわのようなかわいいグッズを選んでいたり、年齢関係なく彼らが自由に生きている光景を見るのも当たり前になりましたね。素晴らしいことです。それだけ我々が縛っていたし、窮屈に生きていたのだなとも思わされます。
個人的には、男性の(透明のトップコートではなく)カラーのネイルやアイラインは魅力的だと思います。もちろんギターを弾いていなくてもです。美容好きな男性も知っています。今じゃ男性が片側だけにピアスしてても誰もなんとも思わないですしね。もちろん、あなたが男性的だっていいのです。ムキムキマッチョになっても、ワイルドになってもなんだっていいのです。うん、結局、本当のところ、突き詰めれば他人が何してようとどうだっていいことです。やってみたいと思ったらトライしたらいいと思います。ジャッジを無くすと格段に生きやすくなります。全てを許すのです。自分を裁くのは自分しかおらず、仮に他人からとやかく言われたとしたら自分の中で先にジャッジがあって、他人に言わせている可能性がないか見てください。

「ナメられないように弱みを見せない」という心理はもちろんわかります。昔は、人をナメようとするからナメられないかどうか気にするんでしょと思ってましたが、確かに一度ナメられると非常に厄介だということを経験しました。特に男性社会に入ったときに上下をはかる目線を顕著に感じました。ナメてくる奴が一定数存在する以上、ある程度の仮面は身を守るために必要なのが現状です。だからこそ、猫でいうお腹を見せられる相手を人は求めるのでしょう。

*1 - 心理カウンセラーの南ユウタ先生のyt動画を一時期よく観ていました。論理的に説明してもらいたい方に向いています。
*2 - If men don't have to be aggressive in order to be accepted, women won't feel compelled to be submissive.
*3 - It is time that we all perceive gender on a spectrum, instead of two sets of opposing ideals.







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