N°48 - ARE U JUSTINE OR JULIETTE: MADAME DE SADE, 美徳と悪徳の反転
Oct.1(04) -
劇曲『サド侯爵夫人』を読んだ。その対となる『わが友ヒットラー』を読んでないが、美徳と悪徳は確かに日常の中ですり替わっているところがあり、サドの言うことが最終的にはもっともに聞こえてしまった。(02と04以降へ)
作家は三島。前に引用(N°43)した「薔薇と蛇」のああした文(p.85-86)を期待していたが、あれが最も美しく、あれ以上のものはなかった。そして内容は一見ただのデンジャラス、しかし実は考えさせられる深いテーマだった。
ちなみにこの作品に惹かれたきっかけは、サド侯爵のファースト・ネームではない「アルフォンス」という名。作中ではアルフォンスで通されていて、私もそれがいいと思う。(でもここでは悪徳らしいサドとする)。ずっとその名前が頭に残っていて、ミュシャもその名前だったんだと知ったり。どうも私はタイトルや名前の響きや美しさに敏感らしい。Alphonse は上品で綺麗な響きだが意味は意外と戦闘的(Ready for battle)。
00 構成
女性のみで構成された会話劇で、象徴を擬人化して語らせている。主人公・サド侯爵夫人ルネは『貞淑』、その母モントルイユ夫人は『法•社会•道徳』、シミアーヌ夫人は『神』、サン・フォン夫人は『肉欲』、ルネの妹アンヌは『女の無邪気さと無節操』、召使シャルロットは『民衆』を代表して、すべてを惑星の運行のように動かしたという。
ここには6天体ある。伝統的占星術の天体でも7天体、現代占星術で使われるのは10天体だけど、本当に天体に当てはめてみると何になるのかな:『法•社会•道徳』は見るからに土星っぽい。『肉欲』は金星いや、性といえば火星だ。『民衆』をお喋りな好奇心として水星にしてみようか、或いは感情的な月になるか? この際両方担ってもらおう。女特有のと言ってるから『女の無邪気さと無節操』を金星に。『貞淑』は『肉欲』の反対みたいなことだけど、残るは太陽と木星。『神』はゼウスに免じて木星か、太陽神を考えて太陽か。そうだなタロットの『運命の輪』の不条理さを考えてそれに対応する木星にしよう。すると『貞淑』は主人公の意志の力ってことで太陽でいかがでしょう。
同時収録されている『我が友-』は男性のみで語られる対の様式。こうしたペアのやり方は確かにオシャレだけど、小説でよく見られることなのだろうか。余談だが、音楽で思い出したものがある。
- ビリー・アイリッシュと兄フィニアスは「"idontwannabeyouanymore" は "COPYCAT" のブリッジ(mine-の箇所)と同じコードを持っている。この2曲を同じ曲として作ったからだ。そして歌詞の意味を正反対にしようというアイディアがあった」と語っている*0。自分の真似をしてくる人物の曲と、自分を鏡で見てあなたにはなりたくないと自己嫌悪する曲。
- 宇多田ヒカルの名曲『光』にはその英語バージョンの『Simple and Clean』(英訳ではない歌詞)がある。お互いの文化圏でもう片方がなかなか知られていない様子。私も近年知った。後者の方がリアルな歌詞で、どっちも好きだけど年々後者の方が好きになる。
01 従順な妻は、何故サド侯爵を捨てたのか
サドが「悪徳の怪物」なら、ルネは「美徳の怪物になる」(p.40)といい、幾度となくサドの脱獄や解放に尽力してきた。「法•社会•道徳」である母がそれを無効にしての繰り返し。ルネは常にサドの味方、良き理解者であろうとした。舞台は全3幕、1772年から始まり1790年まで作中で約20年も時を進める。最終幕は1789年に始まったフランス革命の混乱した世の中で、クライマックスでついに解放され屋敷へとやってきたサド侯爵といよいよ対面間近というときに、ルネは彼を一目見ることすら拒否し修道院へと入ってしまう(終)。あれほど一途に尽くしてきた彼女はなぜ最後の最後になって彼を見捨てたのかというのが三島の疑問であり、着想であり、主題である。
これは一度読んだだけでは難しいが、一つには彼女は理想化したサド侯爵を愛してしまったんじゃないかと思う。
- よく語られる idea of him 。物理的に会わない中で段々と自分だけの解釈作りに拍車がかかる。主観だけの物語が形作られていくうちに相手の姿も自分の姿も美化される。こうしたことは珍しくはなく日常にありふれている*2。彼の実像を理解することはとてもできなくて、彼女は「彼女のためのサド」を理解するに留まった。カトリックは離婚を認めないし、結ばれたってことはその愛は「正しい」はず。その結論が先にあって、ルネの貞淑はもちろんカトリック仕込みの貞淑だから、自分が合わせていく、応えていくほかない。そういう流れになってもなんら不思議ではない。時の流れは残酷で、サドは醜く太ってしまいその様子を使用人から聞いたというのも大きい(その前から決断してたけど)。バンドマンという肩書き込みで恋していたことに、その属性を失った彼にもはやときめかなくなったことで気がついたみたいに。有名人へのガチ恋も実像じゃなくてこれだと思う。
- 彼女の貞淑や清らかさは淫らなサドによって支えられているのも事実。もちろん実在したルネの心境は分からない。だけど影が強いほど光が強いから、ある意味彼女が一番愛していたのは「彼女の貞淑」そのものだったと言える。貞淑な自己への陶酔。彼女を聖なる美しさにしたのは悪魔の所業を犯したサドに他ならないし、悲劇のヒロインにしてくれた。悲劇というのは快楽にもなり得る。哀しいかな、彼女は「優しいサド」を愛していて「醜いサド」を愛していなかった。それも仕方のないことだけど。どれもこれもありきたりな解釈だが、恋に恋してた。人間のやること成すこと結局はシンプルで、時代も国もそんなに関係ないんじゃないかと思う。パトリシア・ハイスミスの小説『キャロル』でも「結局は配役を変えて何度も繰り返される芝居なのよ/古典とは時代を超越した、人間の業を描くもの」という台詞がある。美徳と悪徳、善と悪という性質自体がコインの表と裏。あれほどサドの解放を願ったのに、いざ本当に解放されたら彼は平凡な「無実」となる。そんな人物は彼女の引き立て役にならない。それに、手に入らない対象というのが一際美しく見せたんじゃないのか? これもよくあることだ。
- 復讐というのもシンプルにあると思う。だってあくまでルネの担当は「貞淑」だから美徳でも善でも正義でも精神的な清らかさでもない。復讐しないなんて一言も言っていない。引くに引けなかったというのもあるし。
- サドは「心根の優しい人」だとルネは言っていた。根底にそこがあるから、その希望をひと度味わっちゃうと忘れられないし、私なら改心させられるかも、理解できるかもみたいな、ダメ男やDV男にハマる構図はありそう。彼の優しさをずっと信じていたし、損得で考えたら絶対に距離を取るべき対象のはずだから、三島は「これは女性によるサド論」つまり感情的な理由だと言ったのだな。
02 サド侯爵作『ジュスティーヌ』との関連, Virtue or Vice?
作中ルネが言及するのが、サド本人が獄中で綴った小説『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』。その対になるのは『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』*3。ジュスティーヌと姉ジュリエットは修道院で育った姉妹で、両親亡き後修道院から出てそれぞれの道を歩む。サドには「美徳を守ろうとする者には不幸が降り注ぎ、悪徳に身を任せる者には繁栄がもたらされる」という哲学があったらしく、姉妹の運命は一般的なおとぎ話とは対照的に、悪徳の姉は順風満帆、美徳を守るジュスティーヌは不幸の限りをつくした散々な目に遭っている。
"私がジュスティーヌです。(中略)
アルフォンスは私を、一つの物語のなかへ閉じ込めてしまった"
- ルネ p.117
Justine は明らかにジャスティス(正義)。完全に意図的。
Juliette の語源はローマの名字ユリウス(カエサル)、あるいは、「若さ」(youthful)を意味するラテン語、ギリシャ語で「天の父」(sky father)を意味する木星(Jupiter)などから来ている*1。ジュピターといえばゼウス(Zeus)神に他ならないが、ゼウスが、物語の都合上だとは思うが、性欲大爆発プレイボーイだったことは偶然だろうか。
美徳はルネで、悪徳はサドだ。母とシミアーヌ夫人も美徳で、サンフォン伯爵夫人と妹アンヌは悪徳、民衆のシャルロットはそれを行き来するだろうか。本作(サド侯爵夫人)でも、「無邪気、無節操」の妹アンヌは物語の終盤で結婚し、革命で貴族が混乱しているフランスからさっさと抜け出す手筈になっている。対して、ルネはわざわざ白髪混じりと描写され、俗世を離れて修道院に行く。この修道院行きはどういうニュアンスなんだろうか。わざわざ行くなんてこの時代に慎まし過ぎるわ、お堅過ぎるわみたいな? 敬虔なシミアーヌ夫人への対応をみると、誇張とはいえ頻繁に十字を切る様が滑稽に写されている。それとも単に、尼さんになるのと同じか?
03 修道院は病院のルーツ
修道院(Abbey)って果たしてどんなところなんだろうか......具体的には何も知らない。クリスチャンに出会ったことがない。教会も入りにくくて見学できない。先日、私の持つ6h魚座土星がまるで修道女みたいだってちょうど思ったところだ。裁縫とか集団生活とか絶対に無理だけど。
- 私にとって修道院が『神の家』のイメージと重なるのは当然のことだった。修道院は医療や病院のルーツにして、昔の意味でのホスピス(後述)。それがホスピタル、ホスピタリティに繋がる。語源のホストには「ゲスト」という意味もある。『神の家』のフランス語 La Maison Dieu の名がつくイギリスの巡礼者のための病院(=ホスピス)があったことは以前に紹介した通り(N°42)。(芋づる式に展開されるようでしつこくてすみません)。1534年、ヘンリー8世の国王至上法により解体。これはローマ・カトリックから抜け出して英国国教会を立ち上げたときに、そのトップに国王/女王が君臨するぞという法律。個人的に英国国教会がいっちゃん好き。この法律はその後1536-1539年にかけて行われた修道院解散にも繋がる。
- Abbey, アベイ, アビーと聞いて思い出したのが、イギリスの有名作家ジェイン・オースティンによる小説『ノーサンガー・アビー (Northanger Abbey)』1798年執筆, 『分別と多感 (Sense and Sensibility)』と同時に1817年発表――国は先の修道院解散の際に修道院の土地・財産を没収しジェントリー階級などに安く分与した。そういう経緯だったのか
04 美徳の仮面と秘められた欲望、そして反転
All the good girls go to hell/'Cause even God herself has enemies/And once the water starts to rise/And Heaven's out of sight/She'll want the Devil on her team/My Lucifer is lonley/...Peter's on vacation, an open invitation/...Pearly gates look more like a picket fence
all the good girls go to hell- Billie Eilish
正直私は良い子の仮面を着けてきてしまった側の人間だ。理由の一つには、愛情不足が根底にあり、折角手に入れた愛情を失うのが怖くて、相手に嫌われたくない一心で猫を被るとか、好かれる人物やお誂え向きの良い子になろうとした、というものがある。結果としてそれは自分で自分を苦しめることになり自滅した経験も。また、「本当の自分」を受け入れてもらえる自信がなかったのも大きい。それは当時自分自身が本当の自分を受け入れてなかったのであるし、そもそも本来の自分(本当の自分、ありのままの自分)というものがどういうものなのかも確立されていなかった。自分の価値観や意見を誇りに思えず、自分を生きていなかった。だけどあるとき私はもう一度生まれ直した。少なくとも最も破壊的な時代、峠は越したと思う。私は他の誰とも違う別個の人間だし、コントローラーで操作される人間じゃない。言いなりになる必要などなかった。自分の価値観は受理されなかっただけで、間違っちゃいなかった。仮面も欠点も全部ひっくるめて完全体の私だし、誰にも愛されないかもしれない影の部分こそ大事にしなきゃいけなかった。光もあれば闇もある。どちらかを捨てることはできない。それは偽りだ。
- これを書く三島自身、コンプレックスの強い人間だったことは知られている。彼は自分に課す理想が非常に高かった。もちろんそれには同情の余地がある。戦争で散ることが美徳で、戦地に行って初めて男として人間として認められるような時代に、病弱で生まれ、女の子としか遊ばせてもらえず、女の子遊びばかりで、女言葉を使わされ、両親からも隔離されて育った。芸術面に生かされたものはあれど女性的な性質をこれでもかと与えられてイジメられ恥もかいたことを思えば、現代でも非常にバカにしている人が多いけれども、彼があれだけ男らしさにのめり込んだのも無理はない。男性性と女性性のバランスを欠いていたのだから。ただ、彼はその気持ちを許さなかっただろうが、どんなに鍛えても元から線の細い華奢な身体をそのまま愛してくれた恋人もいたという。
- マッチョでこの曲を思い出した: 私の好きな歌手の1人にオーストラリア人の Troye Sivan がいる。トロイ・シヴァンは正統派ユダヤ教徒として育ったゲイで、既にカミングアウトをしている(家族仲は良く、受け入れられた。もちろん悲痛な葛藤を歌った曲もある)。彼は中性的で細身の容姿をしているが、"STUD" の歌詞には、「あなたは僕が欲しいと思っている筋肉や特徴をすべて持っている」などと存分に語られている。*4
サド侯爵は上っ面の偽物の仮面を随分と嫌っていたのかもしれない:
悪徳こそわれわれ人間に固有のもの、つねに自然の第一法則なのであって、それに比べればどんな立派な美徳だって利己主義的なものでしかなく、分析してみれば実は美徳そのものが悪徳なのだということが。要するに、人間におけるいっさいは悪徳なのだ。
- マルキ・ド・サド*5
一理ある。美徳を貫こうとする者は、自らの内に眠る悪徳に気づいている。誰よりも強く、恐れ、抑えつけている。「アルフォンスは私だったのです! (p. 88)」とルネでさえ認めた。卑近な例でいえば、清楚系の格好している女を清純だと思い込み、ギャルの格好している女をピュアじゃないと思い込むことと同じ。しかし実態は真逆のことが多い。見抜けない人間が多い限り、悪徳は美徳のフリをし続け、美徳を悪徳のように思わせる。利益を最大限得たいからだ。なるほど利己的だ。本当にピュアな人間は人に好かれようと好かれまいと着たい服を着る。
サドは貴族。貴族の社交界はたぶん本当はどろどろしているけれど、表面上は上品に美しく事を運ばなければならない。それが社交だし大人社会だ。キリスト教が美徳と呼んだものも現実世界ではしばしば嘘で偽善的。貴族階級は自由恋愛ではなかった。一族繁栄のための政略結婚だ。真実の愛ではないまま神に誓う。となると逆に彼は純粋であり、それがゆえに極端に触れてしまったと言えなくもない。
不道徳を一つだけ持ってると危ない、できるだけ沢山持って、その間のバランスをとるようにすべきだ。(中略) 99%道徳的、1%不道徳的、これがもっとも危険な爆発的状態なのであります。(中略) このパーセンテージは、なかなか数学的に行かないのであって、1%不道徳氏のほうが、30%不道徳氏よりも、ずっと犯罪の近くにいることが多い。(中略)
都会は人間を鍛錬して、不道徳に対して強靭にしてゆきます。そこで病気(犯罪)にかかる心配もなく、沢山の不道徳を抱えていられるようになる。外国に昔からある社交界というやつは、不道徳の巣でありますが、同時に不道徳菌免疫症の人たちだけが住める場所であり、それなりに和やかにやって来たわけである。彼らは絶対に頭にカーッと血の上らない人種なのだ。頭にカーッと血の上るのは、いずれにしろ正義派の証拠で、これがもっとも不道徳にヨワイ人種であります(中略)
人を悪徳に誘惑しようと思う者は、たいていその人の善いほうの性質を100%利用しようとします。善い性質をなるたけ少なくすることが、誘惑に陥らぬ秘訣であります。
- p. 136-140「沢山の悪徳を持て」/
『不道徳教育講座』三島由紀夫
これもわかる。あまりに潔癖だと悪に耐性がない。正義感に駆られた人間はオセロのようにひっくり返す危険性がある。自分が正しいと常に信じて疑わない人間ほど厄介なものはない。まず多角的な視点がない。小さな過ち一つ許せない。
本音は素敵だけれども、建前はコミュニケーションにおいて必須のスキルだ。大人同士が本当に芯の食ったことばかり言ってたら乱闘になるし損でしかない。お互いを傷つけ合って終わるだけだ。
子どもの世界には嘘がない。(小学生になると大人相手に気を遣うこともあるが本音が優勢だ)。そして思春期で大人社会が嘘で塗り固められていることを知り反抗する。まるで予行練習みたいに。
一例が、少年犯罪の醸成に映画やテレビが大いに力を貸している、と言ってPTAのおばさんや文部省がさわいでいる。しかし少年が、悪や殺人に興味を持つのは、どう抑えても抑えようのない人間の本性であって、その中の何パーセントかが成功した犯罪者になり、あとの大多数が、失敗した犯罪者、あきらめた犯罪者、すなわち常識的な大人になるという経路を、世の大人たちはみんな忘れているか、あるいは口を拭っているのです。悪のないドラマ、否定面のないドラマというものはこの世の中にはない。お伽話にだって必ず悪玉は出てくるので、グリムのお伽話なんか残忍をきわめたものがある。
その意味で、映画やテレビから子供のために悪を駆逐しようとしたって、子供は「純粋な家庭劇」だけで満足する筈もないし、どうせこっそり、ギャング物を見に行くにきまっている。
教育的見地から考えて、われわれの子供のころより、今の子供が恵まれている。と思われるのは、少年時代から、「悪」に鍛えられているということだと思う。
映画やテレビで、しょっちゅう悪者に親しませておけば、社会へ出てから、大人の社会の悪におどろくことが少なくなり、「悪」に対して免疫性になる。そして月光仮面の正義感みたいなものがいかに無力であるか、を早く知ることが出来る。
- p. 277-278「人のふり見てわがふり見直すな」
/ 同著
だいたい、われわれは人間という生き物に高尚さや綺麗さを期待し過ぎている節がある。自らのきたなさを認められないことが、相手のきたなさに過敏に反応し責め立てる要因となる。ジャッジだ。だから常に、身の回りにいる人間、目にする人間をよく観察すれば自分の修正点が映ってる。
蠍座の子どもは親や友達の親の嘘も見抜くらしい。大人の建前を指摘されるから怖いと私の親が言っていた。このエネルギーは真実というものに非常に忠実なのか、許せない境界線が他の人より厳しいのかもしれない。嘘があったら信用できないし自分の懐には入れられないから注意深く観察しているんだろう。私も嘘は嫌いだし、冥王星が絡んでいるから見破れるほうだ。表面的な会話にそこまで興味もない。とはいえ知らなくていい真実も、それを隠すための優しい嘘も存在する。知らぬが仏だ。All or Nothing つまり 0/100 の感情を持つと言われるが、それはやはり生きにくいだろう。不動宮の感情だから柔軟性を持ちにくく、思えば嫉妬とか独占欲というのも固定した感情だ。蠍座/冥王星/8hエネルギーは、自らの醜さ、人間の醜さを発見し、そこにどう反応していくかというテーマがあると思う。「悪」との関わり方だ。私の好きなスウェーデン人歌手に Tove Lo がいるが、蠍座の権化のような人でよく brutally honest と形容されてきた。彼女は結婚して毒が抜かれたように幸せになり、もはや積極的に曲を書くことはない。歌手というのはそういうものだ。
秘密と嘘は似ている気がする。彼らは墓場まで持っていく秘密を共有する強固な関係性をしばしば持っていると聞く。私にはさっぱりそれほど隠さなければならないものが何かわからないが、それはきっと触らぬ神に祟りなしで、関係者以外立ち入り禁止のあまり深入りしたくない深淵な世界だ。
05 正直は面白い
『サド侯爵夫人』は極端な話とはいえ少し考えさせられる話だと思った。今の若い世代は当然のように地球環境や政治への問題意識や人間の幸福について関心がある。私もない方ではないし、TVで取り上げられる小中高生はそうした志の高い子が多い。年が下るほどいい子かもしれない。それはいいことだし、そういう子が取り上げられるのだけど。国全体の豊かさが上がって精神的に余裕が出た結果だと思う。どの時代にも良し悪しの色はある。だけど今は世界全体に遊びがない。
天邪鬼な社会学者の成田悠輔氏は、「人生を変えた一冊」として如何にも変化球な、叶姉妹・恭子さんの昔の写真集を取り上げた*6。しかも「第7章: LOVEはお金で買えるのか。結論: メイクラブの快感と財力の快感はとても似ています」と引用してて笑った。正直過ぎて天晴れだ。この本はなかなか哲学的なところもあり、しかも綺麗事なしで貫かれているらしい。「責任と覚悟を持って自由の道を選んだ」と恭子さんは言っているが、実は私の母と年齢がめちゃ近い(情報が確かなら)。母は凝り固まった日本代表みたいな人だから衝撃だった。その世代の(それ以降も)日本人女性の常識をぶった斬る存在として貴重だと思うし、叶姉妹を芸人やタレントとして見たときにこんなに優秀な人いない*7。IKKOさんと双璧を成すぐらい面白い。夫婦漫才だし、キャラぶれないし、いい具合にファンタジーの存在になっているのが素晴らしい。唯一無二の存在として君臨し続けている。私は断然恭子さん派だ。でも美香さんの方が(いい意味で)クレイジーなホロスコープをお持ちだったはず。恭子さんは、全然グッドルッキングガイじゃなかったのに大金を差し出された途端好きになったらしい。人それぞれ愛の定義が違うものだ。これはたぶん、批判でもなんでもなく、欲望派の人間の意見なんだと思う。欲望という観点では、愛も快楽もお金も同じで、そこを分けてないんだと思う。同じカテゴリーに入っている。全体的に欲が他の人より強いから、求める欲を全て叶える生き方をしている。ポツポツこういう人はいて、側から見ると異文化交流のような面白さがある。常識というのはその時代の多数派の意見に過ぎないし。それに彼女はちゃんと押し付けない。「自分の価値観に基づいて選び取る、それが自分の運命になる」。
私は芯を食った笑いが好きだし、意地悪な角度のネタが好きだ。だってそれは真実だし、笑い自体そもそもそんな高尚なもんじゃないと思ってる。社会は本音を押し殺した嘘が基本だからそれが前フリになってる時点で世間も毒舌を求めている。特に言いたいことが言えないPOISON国家だから、POISON舌が必要なわけだ。イジるから悪が薄まるし、笑いに昇華する。ラインはセンスが問われるけど傷つけない笑いだけだとつまらない。意地悪な自分を責めない方がいい。なんだか、タロット・カードの『法王』と『悪魔』のカードみたいだ。5番と15番目でよく対比されている。今回は、常識や美徳と、タブーや真実や悪徳といった具合に......
06 きれいはきたない、きたないはきれい
正義感は中毒になるらしい*8。悪魔霊こそ正義を唆すのだと。霊能者 月夜見さんの話は生きづらさを抱えた人にこそ刺さるかもしれない。責めないし、押し付けないし、まして恐怖を煽ることなんてない、解放するイメージ。(恐怖を煽る奴は詐欺師と思っていい)。本当の意味で「悪いこと」ってないんだなということがわかる。数回聴いただけでは浸透しなくても、心で理解するのに何年かかかっても、必ず助けになる味わい深い考え方だ。
月夜見さんによると、清く正しく生きるというのに縛られ過ぎると、それが人生で出来なくなった時に自分に返ってくる言葉だから苦しいぞと。前世できたないことをしてない人なんてほぼいない。罪悪感や無価値観を持つことは当たり前でそれを否定したり悪いものと見なすなという。娘を売るなど、不本意でやったにせよ、死後自分のことが許せない場合、「魂の傷」が作られる。そして次の人生で、許される、許していくという経験をするために生まれてくる。だから傷自体愛なのだと。
♥︎この内容は著書『終わりなき魂を生きる』(ナチュラルスピリット社)出版のタイミングで出された全3回ある下記ytビデオのうち、主に#1と#3に含まれている。@StarPeople&岩戸開きチャンネル
♥︎その3本分を1つの動画にまとめた(チャプターあり)、+テロップ付きの45分動画はこちら: Link
以下は、各回のトークテーマを備忘録としてまとめてみたもの:
- #1 Link, 『綺麗に生きようとしなくていい。罪も穢れも恐れもあっていい』: 宗教やスピリチュアリズムは理想論が多く、不条理を認めていない傾向/あの世はこの世に浸透している、ダブっている(境界線はない)/罪も穢れも自分と切り離すことはできない(重く捉えるな)/辛い過去の傷は「悪いから取ってしまおう」は自分に厳しい考え方。それよりも勲章と思え/許さなきゃいけないのではなく「許した方が楽よ」/地獄があってほしいと思う気持ち/人に迷惑をかけてもいい、エゴも傷も悪者じゃない/自分を愛せていないと自分が愛されることも許せない/shouldはない
- #2 Link, 『まっすぐに夢が叶わないことで得るもの』: 文明という幻想/天罰はない/能力差によって存在はかみ合う/占い梯子や引き寄せにどハマりしてる人について/望みが叶わないことが恨みになっている、違うところで選択肢は増えている
- #3 Link, 『平穏に生きることが人生の目的じゃない。自分の選択を愛すること。魂の傷はあなたの優しさ』: 巷で言われるアセンション/パラレルワールド/二極化/もはや目的化した開運について
"悪とは何か? 弱さから生じるすべてのものだ"
- ニーチェ
例えば、彼は何でもモリモリ食べるけれども肉食にずっと強い罪悪感を持ち続けている。そしてそれが理由に人類はみな地獄に堕ちるのだと固く信じている。ベジタリアン、ヴィーガン、(ペスカタリアン)のうち、このように「肉食が卑しい」という思いが強過ぎて「そんな人間は許されるべきではない」という本音から端を発して実践する人が結構いると思う。その場合、私としては、むごい殺し方をわざわざする必要はないけれど、極寒の地の人が動物のファーで身体や家を暖める必要があるように、感謝して生きればいいじゃんと思う。植物も生命には変わりない。どうしてその愛を野菜や果物には拡大せず、それらの命は軽んじていいというのだろう。アミニズムといって非難するのは人間の傲りなんじゃないのか? 霞を食って生きられるはずもなく、生きることは綺麗事じゃない。要は、動物だと人間に近くて立体的で生々しくてグロテスクだから拒絶するんだろう。見たくないから。まるで自分が動物になったかのように痛みを代弁して、「きたない人間」と一緒にされたくないからと優位に立とうとする。その心が卑しくないとでも? 肉食が罪なんじゃなくて、自分が罪悪感に耐えられないから。そこを混同しないでほしい。自分を許せないだけじゃないのか? そこを仕事にしてくれてる人がいることに感謝した方がずっといい。だけど彼らは許されていることを拒絶する。人間の動物性(生き物ということ)を否定する。上っ面で無理がある。生きること、自然の摂理を否定する。B12みたいな動物性の栄養素も必要だし、最近ではLAでこぞって肉を食べ始めてると聞く。結局サプリメントが必要ならその輸送や工場創設の過程だってプラスチックボトルだって地球を汚すことからは避けられない。手っ取り早くオシャレに見える、金かけられる人のトレンドとしてマーケティングに利用されてるだけだと思う。他人に強要することも批判することも、自分を聖人かのように陶酔していることも意味がわからない。良い人に見られたいだけ。偽善。現実的なことを何も考えず、或いは飯の種に、ところ構わず猫拾ってくるYouTuberと同じ、メシア気取りだ。虫唾が走る。
だから、きれいはきたない、きたないはきれい。
(ウィリアム・シェイクスピア戯曲 『マクベス』)
✴︎
*0 - idontwannabeyouanymore lyrics (genuis): Link
*1 - nameberry Juliet, Link
*2 - それを主題にしたのが John Green "Will Grayson, Will Grayson" 勿論翻訳されてる。同著者の映画化された "Paper Towns" もその要素がある。Cara Delevingne 好きだけど本の方が面白い
*3 - "Les infortunes de la Vertu", 1791, later, "Justine, ou Les Malheurs de la Vertu", Marquis de Sade.
*4 - だけど私が好きなのは "At seven hundred miles down highways to Eden/Like my body's the apple you're eating." の最高に旧約聖書な箇所
*5 - マルキ・ド・サド 名言集 Link
*6 - そのファビュラスな本のタイトルは『トリオリズム』。そのヘヴンリーなフランス語の意味はここで書いていいのかな。でもあの表記じゃ区別できないよね。実は結構真面目な内容で、自分と他者とをそれぞれの場面で鏡にしながら、関係性というのを見つめていく哲学的な話だそう。恭子さんって賢くて凄くしっかり者だと思う。成田氏の紹介yt動画(Link)。7h/天秤座を思わせる話。
*7 - 叶姉妹 podcast ラジオ『ファビュラス・ワールド』で繰り広げられる視聴者からのイカつい質問コーナーの姉妹それぞれの解答を芸人ニューヨークが当てる神回、何回も観てる: Link
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