N°68 - BLACK IS BLACK: 格好悪いもネガティブも自然な状態、必ず存在する

16 june *大幅に加筆修正* 

プライドが高いって自信がないことの裏付けなのか? 卵が先か鶏が先か分からないけど、繊細で傷つきやすいことからの防衛反応として機能しているし、別にプライドが高くてもいいんだけど、誰にも触れられない感じになったらちょっと残念かなって。

色々な理由で一回ボツにしたテーマで私にもグサグサ刺さるとこだけど、やっぱり勢いのまま愛を持って書いてみることにした。

結論:
♥︎格好悪さをそのまま認めること(=自己肯定)が本当の自信になるし、変に防衛する必要がなくなる。心が開かれて一層愛される
♥︎ネガティブを存在させること、自分を丸ごと受容することが自然の在り方。ネガティブを消すことは性質上できない。否定しているとかえって見させられる。

🦧

現状「プライドが高い」って日本語は、ほぼほぼ悪い意味でしか使われていない。正直ちょっとめんどくさいやつ扱いだ。このプライドの高さの正体とは「純粋さ」なのかと思ったが、正確には「繊細さ」じゃないだろうか。プライドが高くて純粋じゃないパターンはあるけど、繊細じゃないパターンはないんじゃないか。ただし、この繊細さが逆に攻撃性に出ることがあって一見繊細とは気づかれにくいケースがある。

プライドの高さが問題になるのは、よく言われてるように、芸人でいう負け顔できないときだ。つまりイジられること。『チャンスの時間』の「高野のAマッソ加納をイジってみよう」の回のときに一度こんな話を書いたけど見送った。しかし分かりやすい一例として出したい。

番組では、今まで誰も触れてこなかった/イジれなかった彼女の書いたエッセイや結婚相手など、ちょいちょい引っかかるところをイジってみたものの、全てかわされてしまった。芸人が本出すということはイジられるの確定じゃないかと思うのだが。実際、大悟も以前、"逆林" の回(しずる村上 VS ライス関町)で言っていた。本来はイジリがおもしろになるはずだけど、表面上ではなく根底的に自己肯定感が低い・自信が十分にないと、イジリが否定・批判に聞こえて受け入れられない、耐えられないんじゃないだろうか? だから面白い受け身を取れない→笑えない(変な空気)→関わっても損→誰からもイジられないアンタッチャブルな存在になる。(本当に嫌いなら最初から関わりを作らないと思うので)

なんかシリアスなのかもな。と思った。作ってる側が。芸人以外のクリエイティブな仕事をするのはいいが、もっとポップな姿勢だったらいいのにと思う。

それで今カジサックのチャンネルに来た永野回を観た熱量で書いている。

これ一般ピーポーも無関係な話じゃないと思っている。まああるじゃん。要は「自分の格好悪いところ」突かれたときって。失敗とか。笑いってそもそも人間に備わってる意地悪な視点だと思うから。たとえば、雪道でドデーって派手に転んだ人見たら背徳感込みだろうがクスッとなるだろうし、なんなら盛大に笑ってくれた方が助かることだってある。実は、格好悪いところを見せる方がウケるし愛されるし、(相手は安心感を覚える)、今の時代必須なぐらいなのに、これも自己肯定感がないと見せられない。嫌われるんじゃないか、バカにされるんじゃないかって。芸人じゃなければネタにはしないかもしれないが、でも友達に失敗談とか逆に開示した方が盛り上がったり仲良くなったり、そんな経験はあると思う。天然とかいつの世も人気だし。和ませる力がある。

自己肯定とは「どんな状態の自分」のことも否定しないことだから、自己受容に等しい。(「凄い自分」だけを愛するのは自己肯定ではない)。

キンコン西野なんてあんな面白い逸材いないから皆イジるけれども、彼はちゃんと自信があるから、自分の作品がイジられても全然振るまえるし最高に面白くなる。おもしろいのは、「格好つけの西野」も本物ってところ。たぶん本心だし、プペルも本心。でも、作品の評価と自分の価値とを結びつけていないからダメージを受けない。そして「格好つけ」が世間や特に芸人からどう見られるのかも分かってるし、むしろエサみたいな。両立を可能にしてるところが凄い。本来おいしいわけだから、ちゃんとやめてよーの返しもできるしマジで芸人。ほんと上手い。というか顔が良かったり、調子良く売れてきてしまった彼にとってはむしろ、とっつきやすさとして機能していて、可愛げを獲得できたってことだと思う。多分それを全部計算してるのに不思議といやらしさは感じさせない。別に好きじゃないし正直プペルも一生観ないけど、彼は本当に自己肯定がしっかりしていて、プライドと両立させた好例だと思う。土台がしっかりしてるから、全てのことを切り離して考えられる。そもそも「プペル」なんていうおもしろワードを世に放つ時点で全部西野の手のひらの上で転がされてる感は否めないのに、悪い気はしない。みんなハッピー。

結局チャレンジャーなのもそこで、新しいことして失敗したとしても彼はたぶん折れない。

自信と自己肯定は微妙に違う。「格好いい自分・出来る自分」に自信持つなんて当たり前のことで、それは比較的容易だけど、格好悪い自分にも自己批判しない優しさは強さだ。

芸人なんて特にピエロだから「笑わせる」立場なのに、「笑われる」ことは自己肯定ないと耐えられない。だから威圧する。先に言っちゃうとかで潰す。スカす。イジらせない。これ芸人だと非常に残念に映る。おもしろに発展しなかったわけだから。先輩が同じこと言ったら従順で、後輩のおもしろイジリには当たりキツいとかマジかよと思った。それが純粋ではない理由。

ただし、イジリといじめは違う。その境界線は難しく、イジった側の技量と愛と優しさと受け手の解釈にもよる。だから、本当にイジメられてたとしたら残念なことだし、それの後遺症かもしれないけど、加納さんはイジられだった可能性もある。

🐆

ナルシキャラというのは定期的に輩出されるが、まあ面白くて私は好きだ。ローランドとチャン・グンソクはあの時代安心して見れたけど、ホンマでっかの先生はちょっと緊張させられる(というか彼が緊張している)。でも彼もイジれるからあの場にいる。というかツッコミは中和剤で、ツッコむから成立すると思うし。放置してたら本当に痛い人になってしまう。ゆえに、ツッコミは格好つけのままでいさせてあげる愛なのだ。

私は昔から本当にナルシシストが好きだった。わー格好つけてるー!🙈という視点を持ちつつも、なんか好きだった。自分にそういうところがあるからなのか、シンプルに獅子座火星の好みなのか。彼らは時々滑稽でもあるが、中身は純粋で、その不器用さ含めて好きになる。もちろん好きじゃない野良ナルシもいるから、ナルシが好みのタイプと言われるとちょっと違う。ただ総じてプライドが高い人だったと思う。つまりそれは、格好良くありたいという気持ち、美意識があって、私はそれ自体をとても肯定しているし、その不器用さは実に愛らしい。人間味がある。気がつけばいつも同じような人を好きになってるというのは、大体皆そうなのかもしれない。結論、私の好きなタイプは純粋な人。ロマンチストなのだと分かった。今思うと格好つけてるというだけでまんまと格好よく見えて好きになった中学時代とか予型だった。

✴︎

そして、これは完璧主義にも関係すると思う。
完璧主義というのは欠点を認められないという意味だから、自己肯定とはそもそも反する姿勢を持つ。常に格好いいわけがない。人間が。本当は当事者含め全員分かってるけど、でも「こんな自分(の部分)は愛されないんじゃないか」、「受け入れられないんじゃないか」という不安が根っこにある。だとすると自己受容してない証で、まずは「自己受容できない自分」を受容することが必要だ。

とあるアイドルの、****さんは、悪いけど見てて限界だった。こっちが苦しかった。ゲーム如きで彼の人間としての価値がどうこうするわけもない。くだらない。彼がゲームで最下位になったわせだが、その空気、表情、あれは事故だった。好きでも何でもないけど「失敗しないアイドル」という十字架が限界に来てるように勝手に思って、無理してる感じがキツかった。これはただの負けず嫌いというのではない、彼の存在価値が崩れるかもしれないという彼の巨大な恐怖を感じ取った。あの空気はやばかった。スタジオはうっすら苦笑いしてるし、自分が負けていればなんて責任を感じる必要ないのに後輩は泣きそうになっている。その圧が未だにあるっていう団体芸も意味分からない。この嘘が通じなくなってる時代に。
それで後日出たニュースが「負けても格好いい****」っていう無理ある内容になってて、いや全然そんな空気じゃなかったし。普通に地獄だったけどと思った。そうやって印象操作している。「敗者に見えない圧倒的格好よさ」とか、もはや物語っていないか?? ああまだこの人負けちゃいけない人なんだって。負けたのに負けたって言っちゃいけないんだって。逆にトドメ刺してる。本人が受け入れてないからか社会も受け入れてくれない。

早い話、不自然でした。

たぶん、他人がプライド高い人に引っ掛かるのはそこで、振る舞いが不自然ということ。他の俳優陣なんてどっしり構えてて、負けようがちょっとぐらいミスしようが、ただのゲームだし、自信に全く影響してない。それが普通だと思う。余裕がある。それはそれ、これはこれって線引きができてる。リラックスしてる。なぜなら人間、エラーがあるのが自然だから。機械だってある。彼らは存在価値と結びつけていないのだ。一方、ええかっこしいは、格好いいところだけが存在価値と思ってるので、失態は許されないと感じる。実際には自分で勝手につけた檻なのだが。

🦚

そこから派生して考えるに、負けず嫌いとは完璧主義じゃないかと思う。それは素敵なハングリー精神だけど、負けたから何なの? 失敗したから何なの?って冷静に考えるとなる。負けた自分って本当に価値ないか?

私も完璧主義なとこがあって、0/100思考に陥ったりする。だけど冷静に考えて非現実的だし感情的判断だ。

つまり「条件付きの愛」を自分に設定している。勝った自分、格好いい自分、かわいい自分、優秀な自分......。対する「無条件の愛」は、どんな自分のことも無条件に愛するということ。笑われても・失敗しても・病んでも・ぐでたましてても・ポンコツでも。だって人間だもの。評価が一定だ。

不完全を愛そう。
というより、不完全は既に愛されていることを許そう。

人間は完璧に作られていないし、それを目指すことでかえって歪(いびつ)になるんじゃないか。欠乏を埋めようとするのは不自然な在り方だ。
あの オオタニサン にだって絶対に欠点はある。しかし民衆はしばしば対象を神格化し、欠点を認めたがらない。それは己自身にある欠点を認めたがらないことの投影とも言える。期待しているのだ。同じ人間相手に。もちろん芸能人側がそういうブランディングをしてることもあるのだが。

自分では「足りない」って思っても、本当はその状態で足りてる。十分である。バシャールの言うう強力なマントラ "I AM ENOUGH" とはそういう意味であって、他の誰かになろうとしなくていいという安心感をくれる。現在の私でいいのだと。彼からしたら当然の事実を言ったまでだと思う。なぜなら宇宙(ソース)は裁かない。どんな状態も存在も平等に許しているからだ。文字通り無条件に。ゆえにそれは愛と呼ばれる。
人によって苦手な部分は違う。ジグソーパズルのピースみたいに欠けているからこそ他者と繋がれる。だから見かけ上、欠けていてもそれはそのままで実は完璧だったということ。自分を全体(whole)で愛す。陽だけじゃなく陰あっての自分だという仕組みを受け入れること。この二つは支え合っていて切り離すことはできない。どちらか一方だけで存在することはできない。ポイントは、この部分は別に嫌いでもいいということ。というか、嫌いであるということすら許すこと。でも存在はさせてあげること。この差は大きい。

自分を全体として愛する、受け入れるというのは「宇宙の性質 (万物をジャッジせずに存在させている=無条件の愛)」と合致しているので、物事が自然に流れる。
逆に、自分の一部を否定し、切り離したり無くそうとするのは不自然な在り方なので、不思議なもので本当に、押し込めたモノが目の前に現れやすい。

「ネガティブ」がその典型例で、例えば我々は、病んだり、ネガティブ思考してる自分なんかをつい批判しがちだ。或いは、嫌なことが起きたり、嫌いな人がいたり。――そんなものを消したいと願う。当然といえば当然な心理だが、こうしたものを消滅させようとすればするほどそれが増える。人や現象など様々な投影を見させられる。まるで「認めなさい」と言わんばかりに。なぜならネガティブは消せないからだ。必ず存在する。太陽に照らされた自分とその影が切り離せず、影だけを無くすことができないように。そう、残念なことに、表裏一体なのだ。しかも宇宙から見たらそれはネガティブですらない、中立な立場なので、単にそれは "性質の違い" なのだ。

ネガティブとは単に分離的な性質という意味なので、「こんなものあっちゃダメだ」というのが正に分離的な思考で、ここで逆に「嫌いな人を嫌いって思っていい」とか、「完璧に物事が運ばない、トラブルが起きている現実」を受け入れるとか、ネガティブの存在を許すことで、それはむしろ、ポジティブ(包括的な性質)になる。逆説的に。

例えば、ある芸人を推してるとしよう。その芸人がスベったときも「面白い」と無理矢理擁護するのは私が言ってる「肯定」でも「包括」でもない。(自分の感性に嘘ついて、面白くないと思ってるのに面白いと言うのはね)
この場合、ファンというより信者だ。例を面白いか否かにしてるだけで、推しの不祥事とかあらゆることに置き換えてほしい。

寧ろ、面白くないときに「面白くない」って思った感性をそのまま認めることを「包括」と言っている。黒を黒のまま、ネガティブを認めろってこと。

そのとき、もし誰かが「それ面白くない」って評したらそのコメントをアンチ扱いする――そういう信者かアンチかという二元論が世に蔓延していて、ネガティブや本音を一切排除する風潮が強いように感じる。最近は減ったかな。そうでもないか?
一切悪いことを言いたくない、悪い人になりたくない、推しの悪いところを認めたくない(白であってほしい)――という偽善が不自然で、それが盲目とか信者と呼ばれる所以だ。感情的で、冷静な思考ができていない。このとき排斥された人は本音が言えるプラットフォームを求めるという流れ。

まずその排斥自体がネガティブ(分離)なのだ。









Comments

POPULAR POSTS

N°22 - MEET MY VULNERABILITY: A CONNECTION WITHOUT EMOTIONAL SAFETY IS JUST AN ATTACHMENT

N°5 - I WANT YOUR UGLY, I WANT YOUR DISEASE

N°24 - 私の愛を疑うこと勿れ