N°56 - 重力は愛なのか, ESSENTIAL AMOUR: SE9
前回N°50の続き。"Essential"
♦︎i. Gravity Is Lovely
サン=テグジュペリは重力を愛だと考えた。どういうことか、『人間の大地』NHKテキストから3つ見ていきたい:
- p.49 文字通りの重力としての意味: 彼がアフリカの砂漠に不時着したときのこと。砂の上に仰向けに寝て「目を覚ましたとき、目に入ったのは夜空の水面だけだった。なぜなら丘の頂上で腕を左右に広げ、星々の生簀と相対して横たわっていたからだ。その深みがどれほどのものかをまだ理解できないまま、わたしは目眩に襲われた。その深みと自分のあいだには、しがみつくべき根っこも、屋根も、木の枝もない。わたしはたちまち解き放たれ、潜水夫のように空に落ちていった。だが落ちてなどいなかった。自分がうなじからかかとまで大地に縛りつけられているのがわかった。大地に体重をゆだねていると一種の安らぎを覚えた。重力は愛のように至上のものであると思えた」。不時着することも重力ならば、未知の世界である宇宙空間に浮遊することなく地球に留めてくれる、大地に支えられ守られているのも重力によるもの。大地を離れて空を飛ぶ飛行士だとしても一定の高さまでしか離れることはできない。『天空の城ラピュタ』でシータが「土から離れては生きられないのよ」と言うように、地球と私たちの間には永遠の結びつきがある。
- p.56-61 精神的な重力としての意味: 彼にとって、幼少時代を過ごしたフランスの屋敷サン=モーリス・ド・レマンの広い庭は「地上の楽園」だった。それは遊び尽くせないほど探検のしがいのある庭で、「ぼくらは金色の庭に神々を住まわせた」、「ぼくらは閉ざされた文明を築いていた。そこでは一歩一歩が味わい深く、物事には他のどこでも許されないような意味があった。大人になり、他の掟のもとで生きるようになったとき、子供時代の陰影に満ちた庭、凍てつき、燃え上がるような魔法の庭のうち、一体何が残されているだろう」と神秘的に語っている。「(...)私は重力によって地面に縛りつけられている。それとはまた別の重力が私を自分自身に引き戻す。(...)ああ! 家が素晴らしいのは宿らせたり暖めたりしてくれるからではない。壁を所有できるからでもない。そうではなくて、我々のうちに心地よさの蓄えを徐々に増していってくれるからだ。心の底に、泉の水のように夢を湧き出させる昏い塊を作り出してくれるからだ......」。ここを翻訳者・野崎氏は「物理的な重力とは別に、人間の精神を引っ張る重力もあるのです。それが "自分自身" へ、子供時代へ、そして家の記憶へと我々を連れ戻す」と補足し、"泉" は砂漠に落っこちた彼にとって命を繋ぐ飲み水であると同時に心を潤わすオアシスであることを説明している。ここはホロスコープでいう天底IC及びその4ハウスと、タロットの『カップのエース(A/C)』を私に想起させた。彼は4hに天体や感受点を盛り沢山に持つが、中でも特徴的なのはICにしっかりと根付いた、幸運と発展性の星 - 木星。金色、文明、魔法、泉、夢。それが真反対であるMC=火星にコンタクトを取る。射手座カスプというのもまた相応しい。タイトルの、人間の "大地" または "土地" も4h的。
- p.69-70 人と人とを結びつける重力としての意味: 奴隷バルクの話が印象的。羊飼いをしていたのにあるとき奴隷として無理矢理イスラム圏に連れてこられ家族からも切り離された男性バルク。彼に同情して、サン=テグジュペリたちフランス人はお金を出しあって彼を買い取り晴れて自由の身にする。数年の隷属状態ののち、モロッコに連れて行くときの様子――「アラブ人の露天商たちも、通りを行き交う人々も、みんな彼を自由な人間として尊重し、太陽を平等に分かちあっていた。しかしだれにも彼を必要としている様子はなかった。彼は自由だった。しかも限りなく自由だったから、もはや地上で自分の重さを感じないくらいだった。彼に欠けていたのは、気ままに進んでいく妨げとなるような人間関係の重みだった。涙、別れ、非難、喜びなど、ひとが何かの行動に踏み切るたびに、愛おしんだり引き裂いたりすることになるはずの一切のもの、自分を他人と結びつけて重みを与えてくれる千の絆が、彼には欠けていた。だが、バルクにはすでに、千の希望が重くのしかかっていた......」――彼は、私たちが絆やしがらみと呼ぶような人間関係を一切持たない。0から出発したバルクはどこまでも自由だが、どこまでも虚しい。ある程度の不自由・重さが私たちには必要であるというのは真理だ。重力がないとこの岩だらけの地球に留まれない。そう、『星の王子さま』は "軽い身体" だった。
- 昔読んだ村上春樹の『海辺のカフカ』にこんな会話がある(p.152-153): 主人公田村カフカがいつも大きな荷物を抱えているのを見て、それは「君にとって自由であることの象徴なんだろう」と大島さんは言う:「自由なるものの象徴を手にしていることは、自由さそのものを手にしているよりも幸福なことかもしれない」。「田村カフカくん、あるいは世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいないんだ。求めていると思い込んでいるだけだ。すべては幻想だ。もしほんとうに自由を与えられたらしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ」。「(...) むろんある程度までということだけどね」。「ジャン=ジャック・ルソーは人類が柵をつくるようになったときに文明が生まれたと定義している。まさに慧眼というべきだね。そのとおり、すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。もっともオーストラリア大陸のアボリジニだけは別だ。彼らは柵を持たない文明を17世紀まで維持していた。彼らは根っからの自由人だった。好きなときに好きなところに行って好きなことをすることができた。彼らの人生は文字どおり歩きまわることだった。歩きまわることは彼らが生きることの深いメタファーだった。イギリス人がやってきて家畜を入れるための柵をつくったとき、彼らはそれがなのを意味するのかさっぱり理解できなかった。そしてその原理を理解できないまま、反社会的で危険な存在として荒野に追い払われた。だから君もできるだけ気をつけたほうがいい、田村カフカくん。結局のところこの世界では、高くて丈夫な柵をつくる人間が有効に生き残るんだ。それを否定すれば君は荒野を追われることになる」。
I-B. サン=テグジュペリと砂漠
今回サン=テグジュペリらが不時着したのは北アフリカの砂漠だ。19世紀以来、西欧諸国の帝国主義的な進出が始まり、アフリカ大陸を分割・統治していった(p.46)。当然、現地の人々は快く思わず諍いが絶えなかった。砂漠の民(イスラム教徒の遊牧民)は反抗し続けた。西欧側はこうした服従しない人々の住む地帯を「不帰順地帯」と呼んでいた。ここに不時着すると捕虜になったり最悪惨殺されたりするのだが、サン=テグジュペリら飛行機乗りの使命の一つには、そうした場所に中継基地をつくり西欧の飛行機が通えるようにすることがあった。飛行だけでも十分危険なのに更に危険な任務というわけだ。
サン=テグジュペリはこの奴隷に同情したとはいえ、西欧の帝国主義や植民地主義をはっきりと否定した様子はないらしい(p.63)。そういうのもあって、私は先のアボリジニの引用を省かなかった。とはいえ、彼は、西サハラにある基地で初めて砂漠を体験した時に、現地のイスラム教宗教指導者から毎日アラビア語を習ったり、不帰順部族のもとにしょっちゅう出かけてはお茶したりもしていたので、この時代でも、敵対する相手を理解し結びつきを良くしようという姿勢があったようだ。(対照的に、晩年アメリカに亡命したときは苦手な英語を全く話そうとしなかった)。
仕事場でもあるわけなので彼は何度も砂漠を訪れているだろう。捕虜になった同僚を助けるために飛行機で現地に向かったときには、また違った体験をする。そのとき降り立った場所は、何十万年も前から人類が誰一人訪れたことのない場所で、辺りを見ると、黒い金属のような石が一つ、真っ白な砂の砂漠に落ちていた――。p.48
リンゴの木の下に広げたテーブルクロスに落ちてくるのはリンゴだけだ。星々の下に広げられたテーブルクロスに落ちてくるのは星のかけらだけだ。いまだかつてどんな隕石も、自分がどこから落ちてきたかをこれほど明確に示してみせたことはなかった
「砂漠は宇宙と直結している」。砂漠は美しい。砂漠は神秘的だ。砂粒はまるで星屑みたいだ。(昔『星の砂』と呼ばれる謎の小瓶があったけどあれはなんだったんだろう)。彼にとって砂漠とは、隕石がごろごろ落ちている人跡未踏の神秘的な世界であり、美しい砂の異世界であり、生と死の境でもあった。『星の王子さま』に怖い描写はないが、そんな砂漠を舞台にしている。私も砂漠が好きだ。都会人にとっての非日常空間であり、そのシンプルな構成が裸の地球と相対しているみたいで壮大だ。別の惑星に来たみたいに。無駄なものは何一つない。「小さな王子」は、真上に見える故郷の星から落っこちてきたかのように地球に上陸した。一年後、彼は再び星が真上に見えるタイミングで帰郷する。
♠︎ii. 重さがないと生きられない
リトルプリンスやテキストを読んでいると、ルノルマンカードを思い出す。勉強中というかサボっている身なので詳しくないが、『庭園』のような人間関係と、『家』、『錨』のような重力を感じさせる。
元奴隷バルクに重くのしかかったのは「千の絆」ではなく「千の希望」だった。
それはどういうことか――バルクはお金を渡されて町へ出ると、通りで遊んでいた子どもたちに何かプレゼントをしてやりたくなり、金糸の刺繍が施されたバブーシュ(トルコ風のスリッパ)を買ってあげた。するとどこからか噂を聞きつけた子どもたちが続々と集まってきて、バルクを取り囲んだ。千人の子どもたちの希望がバルクに重くのしかかり、それに応えるべく、彼はバブーシュやおもちゃやらを気前よく買い与えた(p.70)――。
希望は絆にはならない、という残酷な真実。お金持ちの子どもが友達になってほしいからとお金を使って同級生を引き止める現象を聞いたことがあるが、あれではやっぱり友達にはなれない。友達とは本質的に利害関係でないことがよく分かる。それでも、私たちは必要とされたい、引っ張られたい生き物なのだ――。
かよわい子どもを微笑ませてやったことで、
自分がこの地上で少し重さを得たような気がした
サン=テグジュペリは仲間を大事にする。飛行士たちは「アミチエ」だ(参考: N°37 - SE1)。森岡毅氏によると、友達と仲間は違う。「友達の定義は、1. 利害関係を持たない。2. 気の合う相手」。対して、仲間は目的を共有している。まさに飛行士たちのように。「やりたいこと(目的)が違う=利害関係が無い」。仲間は11hで、友達は3hっぽいか?
サン=テグジュペリにとっての重力といえば、妻・コンスエロの存在だろう。「だからって離れてしまえる訳でもない/結局どんなときも一番そばにいてほしい」- と、あゆ(浜崎あゆみ)は歌った(Micophone :歌詞 link) 。この曲には、重力と引力という言葉が出てくる:
- 「重力におされて 引力にひかれて/あなたと出会うのは必然だったの/何も逆らえない 敬服するしかない/解ってる あなたなしのあたしはあたしじゃない」。「私である意味を 存在する意義を/与えて教えてくれるのはいつもあなただから」――という歌詞がある。重力が存在を決定する。重力の葛藤が語られてる曲で、運命が2人を引き合わせたというロマンチックな部分だけでなく、離れようにも離れられないリアルさもある。究極的に言えばどんな人間関係も運命だと私は考える。その中には一筋縄では行かない必ずしもいつも快いわけではない関係も存在する。冒頭には「変化はとても素敵なことだけど/自分を失くすって意味じゃない/根っこにあるこれまでもこれからも/貫ける自分があってこそ」という箇所があるので、ただの他人軸ではなさそうだ。アングルを感じさせる。
妻という重力は当然『星の王子さま』の「バラ」にも反映される。その証拠に、王子は地球に来てからも、しょっちゅうバラのことを気にしている。というより、バラのことしか話していない? 物理的に離れているのに引っ張られる力はむしろ強くなった。"後ろ髪引かれる" とはよく言ったものだ。これが、千の絆と千の希望の違いか。
人間たちの暮らしに入っていくにはあまりに軽すぎる大天使は、一計を案じて、自分の帯に鉛を縫い付けて重しにしたのかもしれない。そんなふうにバルクは、金糸のバブーシュがほしくてたまらない千人の子どもたちによって地上に引っ張られながら、よろよろと歩き出していた。
p.71-72
サン=テグジュペリは、サンタクロースのような振る舞いをするバルクを「大天使」と形容する。先輩操縦士ビュリーのことも「天使」と呼んでいたそうだが、飛行士は確かに野崎氏が言うように「ある意味で翼を生やした人間」。"翼を授ける" でお馴染みの『RedBull』エナジードリンクを思い出す。偶然目にしたのをきっかけに、最近山道や階段をスケートボードやマウンテンバイクで降りまくる危険で爽快なアクティビティを観るのにハマってるが、彼らは翼を授けられたかのように人間離れしたスピードや高さを経験している。死と隣り合わせでありながらそれが高揚感を生み、マリカーをやってるよりよっぽど楽しい。血が騒ぐとはこのことで、これほど生を楽しめる体験はないと思った。やりたくなるのも分かる。まさに火星の世界*1。当時の飛行士にも通ずる、天国に程近い生と死の境界という点で、天使や翼という発想はおかしくない。
しかし、ことバルクについては、ギャルの言う「マジ天使」と同じニュアンスであって、しかも位の上がった大天使を、ワイルドさとは無縁の聖人的な意味で使っている。バルクは普通の人間と違って、軽い。"浮世離れ" とか "地に足ついた" という表現があるが、私たちが縛られている重力という絶対的な物理法則に逆らって天使は浮いているのだ。
『星の王子さま』の王子は軽かった。彼が地球を去るときは、この体は重すぎるので体を持ったままでは帰れないということだった。しかし、語り手のぼくは「そんなに重すぎる体ではありませんでしたが」と述べている。そしてその体は跡形もなく消え去った。砂漠という地面は強固な大地と違い、砂は音を消し去り、井戸をも包み隠す神秘的な大地だ。(N°50 最後)
母の足跡は/とても静かで/立ち去る音も聞こえない - デイヴィスの詩 (後述, p.199)
♥︎iii. 距離に騙されてはいけない
さらに重力は愛なのかについて深掘っていく。実は、同じことを霊能者の月夜見氏が言っていたので驚いている。といってもここでいう愛とはもっと大きな意味になるのだが――:
物質の集合を成立させている法則は、高次の意識である「愛、意志、魂」などです。このエネルギーは重力に似ています。人の想いや魂にも、(あの世的な)質量と重力があります。想いや魂は光速より速く走るため、三次元の幕を超えて多次元に存在することができます。
p.75, 終わりなき魂を生きる
しかし、ジョン・グリーンは、小説『どこまでも亀』で登場人物のデイヴィスに真逆のことを言わせている:
真実に美の邪魔をさせてはならない。少なくとも、E.E.カミングスはそう考えていた。「これが、星と星を遠ざけている奇跡だ」。彼は愛と憧れを書いた。そして、しばしば女性と関係を持ったことは間違いない。それこそがこの詩の唯一の意図だった。しかし、重力と愛情は違う。いつまでも変わらないのが重力だ。
p.199 デイヴィスの詩
そのあとに「父親の重さを知るのは父親がいなくなったときだ」と続く*2。
- 物語は、デイヴィスと微妙な関係にあった父が突然失踪したことから始まる。父ラッセル・ピケット氏は善人とも良き父とも言えない男で、インディアナポリスで建設会社を経営している大富豪だ。詐欺と収賄罪で警察に家宅捜索される直前に行方をくらまし、10万ドルの懸賞金がかけられている(出版当時のレートでは1千万ぐらいか。今ならプラス500万は行く)。過去に息子のデイヴィスと面識のある主人公アーザとその親友は情報を得るために『テンペスト』の難破を装ってデイヴィスに接触を図る。――そして物語の終盤、ピケット氏はあえなく遺体で発見される。この引用時はまだ行方不明の最中だ。
XIII La Mort - 死の距離
- このストーリーが、前回『人間の大地』で語られた飛行士たちの遭難(N°50: "the one")と少しだけリンクするのは、「法律上の死」という点。生物的な生死の如何に関わらず、そのとき法律上では生きていた。インディアナ州の法律では、生物学的な死が確認されるか、生存していたという最後の証拠から7年以上経たない限り、法律的に死んでいるとは見なされない。グリーンの前作で、アイザックという架空の人物を通して『シュレーディンガーの猫』が一つのテーマになったが、ピケット氏もまたそういう "宙ぶらりん" の状態であることは意図的である。
- 作中、「死を恐れぬものは、ただ一度死ぬのみ」という文が現れるが(p.63)*7、"死は一つではない"。アーザの父は突然死しているが、しばらくは鮮明な記憶や想像を呼び起こすことで父を召喚できていた。それがだんだん難しくなり、匂いや感触を感じることができなくなったという。「パパは突然死んだけど、何年かにわたって死んでいった。いまもまだ死に続けている――ということは、たぶん、まだ生きてもいるんだと思う。人はいつも、想像と記憶の間にくっきりとした線があるかのように話す。でも、そんなことはない。少なくとも、わたしは違う。わたしは想像したことを覚えているし、覚えていることを想像する」(p.285)。後半部分、分かる気がする。私は肉親を亡くしたことはないが、私の想像はかなり鮮明だ。
デイヴィスとピケット氏は惑星と衛星のような付かず離れずの親子関係だったが*2、それは主人公アーザとの恋愛関係でも同じで、彼女は常に病原菌で死ぬかもしれないという強迫性障害(OCD)を抱えるために、気持ちとは裏腹に身体的な接触が長くはできない。
「きみがぼくを好きなのは、離れているときだけのように感じるから。ぼくは近くにいても、好きでいてほしいんだ」p. 268
と彼はメールするが、アーザは何と言ったらいいか分からず返すことができなかった。
つまり、"愛情に距離がある" のが、カミングスの詩と、父子の関係と、アーザとの恋愛関係と、さらに言うと、『ツインフレーム(TF)』の関係に見られる遠距離恋愛の試練 - 通称『分離期』(セパレーション、日本ではサイレント期) - と共通する。(私がこの本を読んだのはTFという概念を知る遥か昔のこと)。彼は、物理的な距離を精神的な距離に感じて苦しむ。愛情が距離によって邪魔されていると考える。だけど、星と星とが離れているように、父とアーザがデイヴィスから物理的に離れているように、離れ離れに見えて、そこには見えない引力が働いている。それも強力に、両者は引き合っている。自覚するずっと前から、恋人たちの "赤い糸" のように、繋がっている。結ばれている。愛情は重力のように見えないながらも働いている。それがこの作品の肝だろう。
- この『運命の赤い糸』は、中国に端を発し東アジアで広く信じられているが、『赤い糸』自体は、ユダヤ教及びカバラの『セグラ(Segula)』という災いから身を守るタリスマンにみられる。これは創世記に言及があり*3、それに登場するヤコブの妻『ラケルの墓』には信者によって巻かれた7重の赤い糸が残っていて、これは多産(fertility)を意味するのだそうだ。日本では赤い糸といえば小指だが、中国では足首、ユダヤでは左手首と微妙に違っている。
- 今まで気がつかなかったが、中国の伝説ルートでは「見えない」はずなのに「赤い」と形容されてるのは確かに矛盾である。いずれにせよ、赤色であることに意味があるのだろう。出エジプト記に書かれた『十の災い』の長子殺しは、子羊の血を家の入口の柱と鴨居に塗ることで免れて、それがユダヤ教の『過越祭(ペサハ)』になった。我々神道の鳥居が朱色なのも災いから守るためだから、そこに関連性があるかはわからないものの、赤色にパワーがあるという共通したイメージを持つことは興味深い。
- また、『赤い糸』は、ツインフレーム(TF)という『双子の炎』やソウルメイトとも関連があるかもしれないとのこと(出典不明)*4。中国の赤い糸(縄)の逸話は「距離や境遇に関わらず、必ず二人は結ばれる」というもので、当然TFに通ずる。ある意味、"災いをものともしない" ことから先の赤色の持つ力のイメージとも似ている。日本の呼び名である『ツインレイ』も、ray とは光線であり、"太陽の赤い糸" とも表現できそうなので遠からずといったところ。炎も光線も太陽っぽい。私の持っている Anglel Wisdom Tarot Cards の『太陽』のカードには、炎を手に持った大天使ウリエルの姿が描かれており、カードの伝統的な意味ではTFにピッタリな「統合」という解釈があるので面白い。なんたってマルセイユ版の太陽には「双子の子ども」が描かれている。(1835年のソプラフィノ・デッキ*5 では男女の恋人たちが庭園でダンスしているロマンチックな図像だ)。大天使ウリエルの名は「神の炎 God is my flame」、「神の光 God is my light」という意味。星と星は時代が違うのに地球から見ると隣り合っている。
物語の後半、ピケット氏は失踪したまま帰らぬ人となる。自然死ではあるものの、帰るつもりはなかっただろう。彼のiCloudメモには国外逃亡の計画を試みた形跡と、死を偽装することの難しさについて記されていた(p.123)。そのメモの一つは死亡場所を暗示した。単に捕まりたくなかったという身勝手な理由もあるが、法律的に死ぬまでの7年間息子たちを経済的に守ろうとしたのだろうか? というのは、彼の生前の意思で全財産は息子たちではなくペットに相続されるのだ。
彼が失踪する前日、息子たちと別れる最期のときに、別れの言葉はなかったとデイヴィスは憤慨するのだが、実はそれに代わる言葉はあった(p.82)。
「ぐっすり眠れよ、ばかなみんな」
J.D.サリンジャー, キャッチャー・イン・ザ・ライ
- これは、さよなら、みんな、という意味だと思うけど、考えてみると、人が、"さよなら" というのは、また会いたいと思っているからだ
『星の王子さま』の王子は、一輪のバラに死の宣告のような別れを告げた。"アデュー" の重みだ (N°40)。フランス語のどの語が対応するか分からないが、野崎氏によると「あの世」には「永遠」の意味があるらしい(N°37)。すると字義通り解釈すればアデューは相当に残酷な宣告だ。実際には長期的な別れにも使われるらしいが......。王子は失って初めてバラの価値に気づき、また会いたいと願い、à dieu (神の御許) で再会することを望んだ。――ピケット氏は最愛の亡き妻と再会したかったのだろうか。しかし、私の希望的観測かもしれないが、彼が息子たちとまた会いたいと思っていないわけではないと思う。そして、死んだからといってこの世から「精神的な重力」が消えたわけでもない。父の死はデイヴィスにとって複雑極まりなかった。
「永遠に続くものなどないのはわかる。だけど、なぜ、死んだ人すべてを、こんなに愛おしく思わなくちゃいけないんだろう」 p. 291
純粋に愛おしい人を亡くしたのと、難しい人を亡くしたのでは違うのだろう。そもそも、一つとて同じ死はない。彼は重力=愛ではなく、重力は変わらないが、愛は変わるものだと言った。それは確かに一理あるかもしれない。すべての愛が変わらないわけではない。だけど、もっと大きな、この場合の愛は本当に変わったのだろうか。「永遠に続くものはない」、私は愛は永遠に残るものだと思っている。正確に言うと、目に見えないものは残ると信じている。父からの愛は見えないけれど、父の愛と父の重力は無くなったわけじゃないと思う。
芦田愛菜ちゃんが、建築家ガウディの未完の世界遺産『サグラダ・ファミリア』教会について紹介していた: 外観のファサード『生命の木』のところにある「親子愛」を象徴した『ペリカンの親子像』が教会入口に近づくにつれて見えなくなる仕掛けについて、「親子愛は近くからは気づけないが、遠く離れたら気づける」link yt short *6 とガウディが考えたからではないかって。私も最近ひしひしと感じている。重力も見えない。完全な奇跡によってこの再放送を観られたのだが、サグラダ・ファミリアはこの話と全くの無関係ではない。それどころか、かなり関係する。
ガウディはこの教会を設計するにあたって、『逆さ吊り実験』を行った。糸に重し(錘)をつけたら重力で垂れ下がるように、その姿を写真に納め、これを上下反転し、天に引き上げられる建築を可能にした。重力を天に近づく力に変えた。これは物理的にも合理的で、重さを分散させバランスが取れるものにし、且つ、天の神に近づきたいという人間の精神面をも叶えたという。この発想、素晴らしくないか? タロットの『吊るし人』は、RWS版で後光が差しているが、この絶望的な状況でこそ、最も神の愛を感じられる。それと似ている。
主要な彫刻を幾つも担当している日本人彫刻家・外尾悦郎氏によると、資料の少ないガウディ氏を理解するには「ガウディを見ないこと」と発言している。「一生懸命見ようとすればするほど、ガウディは遠のいていく」。「何事も近くで見すぎると見えない」。「ガウディは僕の方を見ていない。じゃあどこを見ているのか」。ガウディを見るのではなく、ガウディの見ている方向を見る。この点、サン=テグジュペリはこう言った。太字にしたのはよく引用される有名な部分だ(p.92):
自分の外側にある、共通の目標で仲間と結ばれたとき、われわれは初めて呼吸することができる。経験は教えてくれる。愛するとは互いに見つめあうことではなく、ともに同じ方向を見つめることなのだと。同じザイルでつながれ、同じ頂上をめざし、そこで落ちあうのでなければ、仲間など存在しない。さもなければ、この快適さの時代にあって、われわれは砂漠で最後の食糧を分かちあうことに、なぜあれほど大きな喜びを感じたりするのだろう?
ザイルとは登山で使うロープだ。後に「人間を井戸に縛り付けている綱、へその緒のように人間を大地の腹につないでいる綱」(p.83-84)が出てくるが、赤い糸といい、どれも重力の表現だ。
"死神" 漫画 BLEACH には「憧れは、理解から最も遠い感情だよ」という台詞があるが、全くその通りで、見よう見ようとして真正面から捉えていたのでは何も見えない。所詮は色眼鏡だ。
振り向いてほしいとしがみつくのではなくて、相手のやりたいことを応援する。大丈夫。同じザイルで結ばれてるから。
話を戻そう。デイヴィスの昏睡状態の母をお見舞いしたときの様子はこうだった:
(...)ぼくは父親に言った。母さんがぼくの手を握ってくれたってね。すると父親は『反射的な反応だよ』と言ったから、ぼくは、『違うよ、母さんはぼくの手を握ってくれてるんだ、ほら、みて』と言ったら、『母さんはもうそこにはいないんだ、デイヴィス。母さんはもうそこにいないんだ』って。だけど、そうじゃないんだよ、アーザ。母さんはそこにいたんだ。ちゃんと生きていたんだ。他のみんなと同じように生きてたんだ。きみもそこにいる。体がそこにあるから、いるんじゃないし、考えているからいるんじゃない
p. 114
ここから分かるのは、ピケット氏は妻が存命中にもう彼女は神の御許にいってしまったのだと認識しているということ。治療が辛くても延命が正義とするのが日本で、ヨーロッパの死生観では老人ホームに入った段階でほとんど死んだ扱いとし会いに行かないらしい。つまり、ど根性長生きを善とする日本とは違って、人間らしい活動が出来なくなった段階で死の領域に入ってる認識なのだ*7。
ピケット氏は死後、自身の財産をペットの『トゥアタラ』の研究財団に相続させる。トゥアタラとは「実に上手く生きた動物」で、人間の不死の鍵を握るとされる謎の多い爬虫類のこと。対して、彼は上手く生きられなかった。アーザはピケット氏お抱えの動物学者に「だから、全財産を遺すことにしたんですか」と尋ね、「ほかにいくらだって、もっとくだらない使い方は考えられるよ」(p.185)と返される。物語のテーマは、愛、重力、自分、名前、お金、考え、死、渦/無限、メンタルヘルス、そんな感じだ。作者もOCDを抱えている。アーザは自分がフィクションの人物のようで、自分が嫌いというより、嫌うべき自分という実体がないことに悩んでいる。これは私も分かる。デイヴィスは父の愛が見えない、だから存在しないと考えた。ここでは反転し、ピケット氏は目の前に見える妻を存在しないと言った。見えないからといって存在しないわけじゃない、触れられないからといって嘘というわけじゃない。
彼女は何度か、こういった。はるか彼方の空で流星雨は降っているのよ、わたしたちにみえなくてもね。キスできるかどうかなんて、どうだっていい。彼女には雲の向こうが見えるんだ
p.198 アーザの言葉を回想したデイヴィス
アーザも父を亡くしているが、「死は人によって受け止め方が違う。他の人の痛みは、本当はよくわからない。他の人の体に触るのと、他の人の体になるのは違う。それと同じだ」p.183 と言うように、ピケット氏の痛みはピケット氏だけのものだ。(ここは❶自分の体を嫌っている彼女と、アーザの体が好きだと言っているデイヴィス。❷人によって何に恐怖するかは違う。人の恐怖症は解らない: p.274 - ことのトリプル・ミーニング)
実際、物語では、アーザの母は過保護になり "呑み込む母" となって娘を束縛するし、デイヴィスは亡き母が生きてた頃の昔の光を送ってくれる遠くの星を眺めることで自らを慰め、アーザは常に死の恐怖に襲われながら亡き父の写真で慰め、ピケット氏はトゥアタラで死を超越しようとした。アーザのOCD*8も無関係ではない。主治医曰く「人と親しくなることへの不安が、バクテリアを交換する不安という形で表れている」p.172。ただのキスはなんとかいけても、ディープキスまで行くと身体が拒絶する*8。「もし死ぬことがわかったらさよならのキスをすると思うけど、実際に最期に考えることは8千万のバクテリアを交換したこと」だという(p.266)。問題は、いつ死ぬか分からないということだ。アーザの父は突然死だからそれがトラウマに関係しているだろう。しかし人が死ぬことは避けられない。だけど、また愛する人を失うと思うと耐えられない、また傷つくのは嫌だ、この人は代えがきかない、それが死のトラウマになる。アーザの病原菌に対する過度の不安の元は「不確実性」だと思う(死ぬ確率は低いと分かっているけど絶対ではない)。これはデイヴィスも同じだ。"12年前の光を送る星" に住む人たちが見るこの地球は――
「(...) 子どもの頃のぼくやきみだ。ふたりとも、これからどんなひどいことがあるか、どんな素晴らしいことがあるか、まったくわかっていない」
「いまだって、これからどんなひどいことがあるか、どんな素晴らしいことがあるか、まったくわからないでしょ」
「ぼくは、わかってると思いたい。これ以上ひどいことはもう起こってほしくないからね」
わたしは12年前のくじら座タウ星の光から身を引いて、デイヴィスを見上げた。そして彼の手を握った。わたしのなかの一部が、愛してるといいたがっていたけど、本当にそうなのかどうか自信がなかった。わたしたちの心は同じところが欠けている。だから愛しているのかもしれないけど、それを愛といっていいのかどうか、確信が持てない。
家族のだれかが死んでいなくなるのはとても不幸なことだから、彼のいってることはわかるし、昔の光になぐさめを求める気持ちもわかる。彼は3年後、別の星を好きになる。それはタウ星より昔の光を送ってくれる星だ。そしてその過去の星の光がお母さんのいない現実に追いつくとき、もっと遠い星を好きになる。そしてさらに遠い星を。光を現在と一致させたくないからだ。そうでなければ、こんなことはしていないだろう。
わたしもパパの写真をみるのが好きだ。同じことなんだと思う。写真は光と時間だ。 p.216
イエスの使徒たちを見ても分かる通り、目に見えないものを信じ感じ続けるのは難しい。TF、遠距離恋愛も同じことだ。距離を意識すれば本質を見失う。
地球は丸い――遠くまで行けば行くほど、
うちに近くなる
- テリー・プラチェット
p.196 父が失踪したときデイヴィスが引用
ピケット邸のラボにて、動物学者マーリクがアーザにトゥアタラ(ペットとしての名前はトゥア)を見せる場面がある:
「トゥアタラは寄生生物の宿主になり得る。たとえばトゥアは現在、サルモネラ菌の保菌者だ。ところが、トゥアタラはそのおかげで病気にはならない」p.184
これは菌に侵されて死ぬかもしれないとか、"自分ならざる自分" である微生物が自らの行動を決定している(コントロールできない)と考えるOCDのアーザにとっての答えになる。
「これがトゥアタラの細胞。われわれの知るかぎり、トゥアタラはこの2億年、ほとんど変化していない。化石と同じにみえるんだ。そしてトゥアタラはすべてをのんびり行う。のんびり成長し、30歳になるまで成長し続ける。生殖ものんびりで、4年に1度しか卵を産まない。新陳代謝ものんびりだ。ところが、すべてをのんびり行って、2億年間ほとんど変化していないにもかかわらず、分子の突然変異のペースだけは、他に知られているどんな動物よりも速い」
「それって、進化が速いってことですか」
「分子レベルの進化がね。トゥアタラの分子は、人類やライオンやショウジョウバエよりも速く変化する。そこから実に様々な疑問が生まれる。かつて、あらゆる動物の分子がこの速度で変化していたのか。何がその速度を遅くしたのか。トゥアタラはDNAがそんなに速く変化しているのに、なぜこんなに変化しないままなのか」
「答えを知ってるんですか」
マーリクは声を上げて笑った。「まさか。冗談じゃない。ぼくが科学を好きなのは、いくら学んでも、実際には答えなんてみつからなくて、もっと面白い疑問が生まれるだけってとこなんだ」p.187
これは、未来への確実性を求めるアーザたちに対する答えだ。この世に確実なものはない。占いで導いたところで、「未来は固定していない」という考えが主流であるし、逆に自由意志を無くさせる言い方をする奴はちょっとやばい。もっとひどい目に遭うんじゃないかというサバイバルモード、予測不能な事態に対処するストレス、これ以上傷つきたくないという防衛本能、問題が起きたときに対処できるかどうか分からないという自己信頼の低下。
ストレスに打ち勝つための最も強力な武器は、ある考えに代わる考えを選ぶ能力だ
- ウィリアム・ジェイムズ p.66
まさに『月』の世界。先が見通せない。正体がわからないものは怖い。一方で、謎や恐怖に惹かれる心理も人間は持っている。未解決事件、宇宙、ピラミッド、ホラー映画にオカルトはいつの世も人気のコンテンツだ。逆に明かされてしまったらつまらないのだと思う。だから答えを知りたいと言っておきながら種明かしされたくないのだ。その後に続く『太陽』は白日の下に晒すのですべてを霧散させるが、私たちが自ら光らせることのできないこの月にいるときは、明かりを照らそうと躍起になる。見えないものを見えるように。「答え」が欲しい、「安心」が欲しい。そうやってカードを引く。これは私の姿である....。その恐怖が「狂気」になる。満月の夜の狼のように。集団ヒステリーとか、死の舞踏とか、恐れに支配された状態は危険で、洗脳も容易い。考えたところで解決もしないし、冷静で正しい見方をしていないのでこういうときに大事な決断をすべきではない。
Xviii la lunE: Focus On the Energy,
Not the Reality
♠︎IV. "目に見える現実" と "目に見えない真実"
私は目に見える現実にばかり反応していた。そしてそれを信じていた。目に見える物理的な距離、離れているという現実、相手に触れられないという現実を。エイブラハム・(エスター)・ヒックスは「あなたはエネルギーバージョンの現実を認めることが出来ますか?」と言った。つまり、目に見えない、現実化していない現実のこと。具現化しなければ、物質化しなければ信じられないのか。ここで言うと、「愛のエネルギーを信じることができるか」ということ。目に見えるものがすべてなのか? つまりこの、『月』の世界は、見えない=恐怖になっている。目に見えるものが真実で、まだ見えないものの在り方を決めつけている。「XXを持っていない」とか「〜できていない」という欠乏(不足)や否定の現実に焦点を置いている。昼と夜は違う。昼間にあった楽観性が夜になると消える。午前3時の脳内会議とか。漠然とした、押し寄せる不安。鼓動が速くなる。悪い妄想が消えない。『ソードの9 (9S)』。思考のスートなのはまことに正しい。嫌な考えが止まらない。「考えすぎたことはすべて問題になる」とニーチェ先輩も言っていた。視界の悪い夜では見落としているものがある。見えていないものがある。逆に、全てが影の世界だからこそ昼間とは違う見方ができる。RWSでは、月でありながら蟹座ではなく魚座に対応している。「形になって現れていない真実を信じること」が、月の世界で求められることなのだろうか? 古くは天文学者/占星術師を描いたカードだった。ホロスコープも天体のエネルギーを読んでいると言えるかもしれない。その天体たちの位置関係は現実を決定しない。現れ方はいくつもある。カードもそう。現実になる前のエネルギーを読んでいる。私たちには実体がない。それで元々だ。意識が身体を通して現われている。そう思う方が納得できる。
GOD IS ENERGY
Not the Physical Body
長いので続きは次回「愛するとは生きること」。サグラダ・ファミリアについても個別に書くつもり。やっと投稿できた。全部自己満足なんだけど過去イチ何週間もかかった。
✴︎
If the stars were edible,
And our hearts were never full,
Could we live with just a taste? Just a taste,
It's cause I love you babe,
In every kind of way,
Just a little taste,
Yot know I love baby
from Music For a Sushi Restaurant by Harry Styles
- *1 - 侍漫画の『銀魂』で沖田の「剣に生き、剣に死ぬのが侍ってもんでさァ」というセリフがあったが火星の生き方だ。次回のテーマ。登場人物たちの多くは常に生死の境で生きている。現代でそういう英雄的な生き方はあまりなく、勝負という生死に置き換わってる。私は勝手に死にそうになってるだけで格好良くないが冥王星的な生き方と言えるかも。蠍座の支配星は冥王星、副支配星は火星だ。(実は銀魂も4h物語。銀さんの過去は重い。ついでにハム太郎も4h/8h系物語。ハムチャンなのにコミュニティを築き、人間ロコチャンの気持ちがわかるから)
- *2 -「彼に今までずっと引きずり回された――抱きあげられて、あちこち連れ回されて、言われた。一緒に来い、連れていってやる。楽しいぞ。だけど、2人とも、ちっとも楽しくなかった」(p.200)とあるように惑星に振り回される衛星のような関係だった。ピケット氏は自分の全財産をペットと不死の研究のために継がせる。外国のお金持ちがペットに遺産を相続させるニュースは一度は聞いたことがあるはず。彼の妻、即ちデイヴィスらの母は既に死去、ピケット氏にも密かに死のトラウマができていた。これが不死の研究に充てる動機で間違いないだろう。彼もまた距離に苦しんでいた1人だった。物理的な距離を決定づける「死」を防ぐために、自らの「死」によってその莫大な財産で早く研究を進めてほしかったのか。それが言わば、彼の愛だったのか。
- *3 - red string (kabbalah) en wiki link. crimson or scarlet wool thread.
- *4 - 運命の赤い糸 jp wiki link, : 結局皆麗しいものが好きだ。動物だってそう。
- *5 - Tarocco Soprafino, イタリアの芸術家カルロ・デラ・ロッカ Carlo Della Rocca による。メーカーは F Gumppenberg, 1835年。"Sopraffino" とは「極上の」superfine という意味の形容詞。
- 同じくミラノの Il Meneghello からリメイクも出ている。
- また、Lo Scarabeo からもこれをベースにした Anicent Italian Tarot がある。タロットはなんぼあってもいいですよね
- *6 -『博士ちゃん』サグラダ回は今年5月放送でもうTverに無くてああ見逃したなぁって落胆していたが、必要な情報なら見られるはずだよなぁって翌日覗いたら「未公開映像含むディレクターズカット版」が11/1にやると。ARE YOU SERIOUS???!!! これはもうミラクルでしょ。神に感謝。昨日見た時に無かったのに! やっぱりこの世はミステリアス。godsend. シンボリズム全部明かされてるのこれ? ちなみに別番組だが、彼を密着したNHKクルーが、「ドキュメンタリーとは、事象の奥にある、目に見えないものを撮ることだ」と言っている。
- *7 - youtube『日経テレ東大学』の「辞世の句」の回。面白かったが、大人の事情により恐ろしく速い手刀でアカウント&全動画削除。その後『ReHacQ』を立ち上げたが、"けん玉みんなでやったっけ。もう戻らないあの夏" 状態。
- シェイクスピアが「人間、一度しか死ぬことはできない」と言ったようだけどやっぱり前回の方が段違いで面白かった : link (4/4回目)。
- チョコプラの有能すぎるモノマネ面白いから見てほしい。"イェーイ大学" 「成田山幽輔」、"フランス・パン在住" 「目せまゆき」、"日本を動かしたような雰囲気を醸し出す人物" 「安倍震象」(ビスケッティ佐竹)による『Re: Hackshun 安倍さんに聞く解散の真相』link
- *8 - アーザが恐れてるのはクロストリジウム・ディフィシル腸炎。ヒトマイクロバイオームという微生物(p.10)。そしてキスは微生物の交換であり半年後には腸のマイクロバイオームは僅かだが確実に変わる(p.161)とある。アーザは生物の授業中に失踪中のピケット氏のニュース記事を調べていて(p.80)、ピケット家の動物学者マーリクから生物学に興味あるか聞かれて、はいと答えている。皮肉。私もハイポコンドリアのきらいがある。心気症 hypochondria. ジェイン・オースティンの世界だよ。アーザは読んでて自己嫌悪の部分もあるだろうが全然いいやつじゃないしムカつくところがあるのがリアル。MHを美化してない。正直ピケット氏の愛情はどうなんだろうな。
- 引用中の太字はどれも私がしたもの。タイトルは迷った挙句 Our Love にしてみた。ノートルダム大聖堂は Our Lady (Notre Dame)ということなんだね。
- Abema『チャンスの時間』ある愛王は名言を残した... 「恋は名詞、愛は動詞、S*Xは接続詞」......た、正しい。別の愛王H氏は「同じ星に住んでる限り、遠距離恋愛って絶対存在しない。ある一定の距離以上離れないように、この星って丸くできてる」......。true loveだけど恥ずかしくて本文に載せられなかったのでここで織田無道に処す。
- 一方で、重力が愛を引き離すイメージの曲もある。Harry Styles『As It Was』の歌い出しは「重力が僕を引き止めている」で、重力が彼を後ろに引っ張っているイメージ。直後に「君の手のひらを差し出してほしいんだ」と言うが、MVでガールフレンドに追いつけない、手も掴めない、どうしようもない感じになっている。 重力のネガティブな表現の一例。: Holdin' me back/Gravity's holdin' me back/I want you to hold out the palm of your hand.
- key words: tatwd turtles all the way down wgwg will greyson jg john green terre des homes tdh twin flame twin ray separation uriel jewish sagrada família familia esther abraham hicks tree of life basilica antonio gaudí gaudi 聖家族贖罪教会 サグラダファミリア ハリースタイルズ デラロッカ エイブラハムヒックス
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